ハーンが見たかった日本3 バジル・チェンバレン


 

 産業革命を経て帝国主義の時代の19世紀末から20世紀初頭の西欧社会では、誰もがある種の息苦しさを感じていた。その悪しき西洋文明にまだ染まっていない夢のような国があるとの伝聞が広まり、西欧人は皆その国に羨望の目を向けた。ラフカディオ・ハーンもその一人だったが、彼が思い描いていた日本とは一体どんな様子だったのか?                       絵画や家の装飾、線と形に依存するすべての事物において、日本人の趣味は渋みの一語に要約できよう。大きいことを偉大なことと履き違えているこけおどし、見せびらかしと乱費によって美しさを押し通してしまうような俗悪さなどは、日本人の考え方のなかに見出すことはできない。                                                金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。ほんものの平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)社会の隅々まで浸透しているのである。

「日本事物誌」バジル・ホール・チェンバレン著 より                                  バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain, 1850 - 1935年)は、イギリスの日本研究家で、東京帝国大学文学部教師として明治時代の38年間(1873-1911年)日本に滞在した。19世紀後半~20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人です。上の記述は、日本について記述した事典"Things Japanese"(『日本事物誌』)からの抜粋です。日本文化を客観的に見た分析は大いに傾聴に値すると思います。さらにいくつか紹介します。                                 日日本に長く住み、日本語に親しむことによって、この国民のあらゆる階級の態度を見ることができたが、外国人すべてに深い印象を与えた事実が一つある。それは、日本人の国民性格の根本的な逞(たくま)しさと健康的なことである。極東の諸国民は――少なくともこの国民は――ヨーロッパ人と比較して知的に劣っているという考えは、間違っていることが立証された。同様にまた、異教徒の諸国民は――少なくともこの国民は――キリスト教徒と比較して道徳的に劣っているという考えは、誤りであることが証明された。                                                      

過去半世紀間、この国のいろいろな出来事を充分に知ってきたものは誰でも、ヨーロッパの総てのキリスト教国の中に、あらゆる文明の技術において教えやすく、外交においては日本ほど率直で穏健であり、戦争に際してはこれほど騎士道的で人道的な国があろうとは、とうてい主張できないのである。もし少しでも「黄禍」があるとするならば、ヨーロッパ自身の良き性質にもまさるさらに高度の良き性質を、その新しい競争相手が所有しているからにほかならない。このように驚くべき成果が生じたのは、日本人が苦境に立たされていることを自覚し、断乎として事態を改善しようと決意し、全国民が二代にわたって熱心に働いてきたからにほかならない。                                                         さらに1900年(明治三十三年)、北京救出のため連合軍とともに進軍した日本派遣軍は、もっとも華々しい活躍を見せた(北清事変)。彼らはもっとも速く進軍し、もっともよく戦った。彼らはもっともよく軍律に従い、被征服者に対してはもっとも人道的に行動した。                                                      ヨーロッパが日本からその教訓を新しく学ぶのはいつの日であろうか――かつて古代ギリシア人がよく知っていた調和・節度・渋みの教訓を――。アメリカがそれを学ぶのはいつであろうか――その国土にこそ共和政体のもつ質朴さが存在すると、私たちの父祖達は信じていたが、今や現代となって、私たちはその国を虚飾と奢侈の国と見なすようになった。それは、かのローマ帝国において、道徳的な衣の糸が弛緩し始めてきたときのローマ人の、あの放縦にのみ比すべきものである。                           さて、大いに日本を好意的に見る記述が続きましたが、終盤になって結論めいた記述に変わって行きます。          『しかし、日本が私たちを改宗させるのではなくて、A私たちが日本を邪道に陥れることになりそうである。すでに上流階級の衣服、家屋、絵画、生活全体が、B西洋との接触によって汚れてきた。渋みのある美しさと調和をもつ古い伝統を知りたいと思うならば、C今では一般大衆の中に求めねばならない』                                  大変に興味深い記述です。チェンバレンの日本滞在も長く明治時代も終わろうと云う時期となり、富国強兵・殖産興業を成し日清・日露戦争の勝利で、国が変わってしまったことを端的に指摘しています。Aの行ですが、日本の良き側面を日本人自らが放棄し、西欧の悪しき側面を真似しようと躍起になっている姿が伺えます。Bの部分では、地位と富を持つ日本人が悪しき西欧文明に染まって行き、Cでは、もはやかつての美点も一般大衆にしか見いだせないことを嘆いています。「…社会はなんと風変わりな、絵のような社会であったか…」と述べていましたが、「古い日本は死んでしまった」と結論づけています。そのためチェンバレンは、自著の『日本事物誌』を、古き良き日本のための                                        いわば墓碑銘たらんとするもの                                           と位置づけています。チェンバレンが日本を去り約一世紀が経過した現在、チェンバレンがかつて見た、そしてラフカディオ・ハーンが見たかった日本はいくらかでも残っているといいのですが。 つづく

 日本とは何か、日本人とは何か、を引き続き考えて行きたいと思っております!! 

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