ビジネスアイテム
勤めが長くなると、仕事にでる際に使うものが増えてしまうものです。知らず知らずのうちに増えてしまったアイテムを少し整理してみました。
私の人生に切れ込んで来た音楽
成長の過程で、心に大きく切れ込んで来たあの音楽、あの一曲。誰にでも思い出の一曲があると思います。思い出を綴ってまいります。
歴史 · 2022/01/22
鎌倉殿の13人
 2022年NHK大河ドラマのタイトルが「鎌倉殿の13人」であると聞いた瞬間、微かですが血が騒ぎました。鎌倉殿とは二代将軍頼家で、13人とは頼家を除いた13人の有力豪族のことです。頼朝亡き後、まだ18歳だった頼家が家督を継ぐことになりますが、若輩であったために13人の有力豪族による合議制で重要事項を決定しようということになりました。頼家は単なるお飾りであり、この13人が実権を握ることになります。プロレスのバトルロイヤルはご存じですね。十人前後のレスラーが一度にリングにあがり、一人一人消して行き、最後に残った一人がチャンピョンになるという形式です。正に鎌倉時代初期に有力豪族13人のバトルロイヤルが繰り広げられ、最後の一人に残ったのが主人公である北条義時(小栗旬)です。この大河ドラマは一人一人が蹴落とされて行く過程をドラマ化したものです。
令和・囲碁美人 · 2021/11/06
ファイルナンバー8
成人式の前撮りです!
令和・囲碁美人 · 2021/11/06
令和囲碁美人ファイルナンバー7
ママが振袖で財閥令嬢を演出
影響のあった本 · 2021/08/15
11「昭和史」半藤一利
 2021年1月12日、半藤一利氏が永眠されました。同じ戦争体験者の司馬遼太郎氏が昭和を書かなかった(書けなかった)のに対し、半藤氏は昭和に拘った作家でした。司馬氏の場合、あの戦争の馬鹿馬鹿しさから、昭和を書こという気持ちが起きなかったと言っています。逆に、半藤氏は東京大空襲で生死の境を彷徨う実体験と、戦争体験者の聞き取り調査で、「戦争体験者は真実を語りたがらない…」という体験から、後世に実像を伝えなくてはならないという使命感を抱いたようです。司馬氏は従軍での内側からの戦争体験者であり、半藤氏は一般市民の被害者としての体験者という違いがあり、それが昭和を書く書かないの立場を違えたようです。  半藤氏の言葉は、見たまま感じたままを率直に述べているように感じます。明仁上皇夫妻も、その点に惹かれ、度々歴史の話を半藤氏からお聞きになっていたようです。よく、第二次大戦は肥大化した軍部が勝手に起こした、そのような言われ方をする場合がありますが、「昭和史」にはそのように書かれていません。「軍部や時の内閣が率先し開戦を誘導できるものではない。マスコミが世論受けする勇ましい開戦論を煽り、マスコミから煽られた世論が軍部や内閣を動かした…」、というのが半藤氏の見方のようです。また、平成から令和の現在は終戦前夜の時期と大変に似た雰囲気であるとも感じていたようです。どのような点でそう感じていたかと言うと、「指導者が全体のプランや見通しを示さない」、「当局が真実を隠し、真実を求める動きや発言が封じられる…」、「誰も責任を取らない」、「省庁や部署の都合や利益が優先される」…と述べています。  最高責任者の東条英機はどんな気分だったのかを伺うことができる出来事があります。一つは「竹槍事件」です。1944年(昭和19年)、2月23日付け、東京日日新聞の一面に、「竹槍では間に合わぬ…」との記事が掲載されました。これに激怒した東条は執筆者の新名丈夫(しんみょうたけお)を呼び出します。「…死地に送ってやる…」と、新名は直後に召集されることになります。これだけを見ても、軍がどんな気分で国民を招集し、戦地に送っていたかを伺うことができます。もう一つ、「東条自殺未遂事件」があります。1941年(昭和16年)1月8日、東条が示達した「…生きて虜囚の辱めを受けず…(捕虜になりそうな状況になれば自決せよ)」で有名な「戦陣訓」があります。この「戦陣訓」が多くの玉砕や自決の引き金になったと考えられています。終戦後、GHQに拘束された東条は、1945年(昭和20年)9月11日、拳銃自殺を図りましたが、見事に急所を外しすぐに介抱されました。自ら発した「戦陣訓」を自ら破ったことになります。指導者の気分はこんなものだったようです。  また、半藤氏は面白いことを盛んに言っていました。「自分は右でも左でもない、ど真ん中の人間であると思っている。ところが、最近自分が左翼ではないかと言われることがあるのには驚く。ど真ん中の人間がまっとうなことを言うことが、左翼的に見える社会とはどんな社会であろうか…」。もっともっと色んなことを聞いておきたかった方でした。
影響のあった本 · 2021/08/01
10「小説太平洋戦争」山岡荘八
ブックリレー10 山岡荘八「小説太平洋戦争」 (オリンピックで盛り上がる部分はあると思いますが、8月はいつもあまり考える機会のない戦争について考える月間だと思っていますので、少し考えてみました)...
影響のあった本 · 2021/07/25
9「浅見光彦シリーズ」内田康夫
 東野圭吾・村上春樹、古くは横溝正史・松本清張なども一通り家にあったと思いますが、今はすべて処分してしまいほとんど残っていません。が、内田康夫だけは処分する気分にならず、すべて手元に残してあります。内田康夫と言えば、浅見光彦シリーズですね。「平家伝殺人事件」「後鳥羽伝説殺人事件」「天河伝説殺人事件」など、タイトルを見ただけで読みたくなってしまうようなものばかりです。テレビでもお馴染みで、ウィークデイのテレビ番組を見ると、必ずどこかの局で放映しているようです。BS6と8で、そして地デジで、同じ日に計3つも番組が組まれていることも珍しくありません。浅見光彦役は、水谷豊・辰巳琢朗・沢村一樹・速水もこみち・榎木孝明・中村俊介など、どこかユーモラスな中に優しい雰囲気を持つ俳優さんが演じています。                                   推理小説と紀行文が程よくブレンドされた作品の中には、日本各地の伝説や風習などが、絶妙に組み込まれているので、ストーリを楽しむだけでなく、のんびりと旅をしている気分にしてくれます。「風の盆幻想」「しまなみ幻想」などは、そこに居るような気分で楽しめます。北は北海道の網走から、南は琉球の文化まで、本当に各地の文化風土が面白く紹介されています。毎回、殺人事件が起きるのですが、どこか同情できる部分のある事件ばかりで、悲惨な後味はほとんど残りません。エンターテイメントの要素だけでなく、「鯨の啼く海」「靖国帰還」などでは、捕鯨問題や靖国問題などの社会問題に深く切り込んだ作品なども多く見られます。また、「はちまん」「遺影」など、戦争の実体験者として、戦争関連の問題提起の作品も多くあります。数えたことはありませんが、100冊は越えていると思いますので、時間を気にしなくてもよい生活になったら、ゆっくり読み直してみようと楽しみにしています。
影響のあった本 · 2021/07/25
8「故宮」陳舜臣
 中国史は、地域も広く時間の奥行きも深いので、何とも全体を掴み難いですね。中国史に限らず、通史を学ぶ際のテキストは政治(王朝)の流れに沿ったものが普通ですが、面白みに欠けたり箇条書きになってしまったりするものが多いと思います。この「故宮」シリーズは、故宮美術館の収蔵品を軸に中国史を見るという新しい企画です。中国第一級の国宝がふんだんに登場し、そこから中国史を見て行くという珍しい趣向で、何とも楽しいシリーズでした。                                             さて、「中国は…」と言う場合、「どこの何を指して言っているのか?」という疑問が常に付きまといます。まず、1、領土としての中国 2、民族としての中国、の2点が思い浮かびます。しかし、領土は時間と共に刻一刻と減少と増幅を繰り返していて、定まった領土は現在もありません。また、民族として見ても、漢民族が支配した地域ということもできません。漢王朝以来、漢民族が統治した統一王朝は唐と明だけで、他は異民族の王朝でした。しかし、(北京と台北に分かれているものの)故宮博物館に伝わる国宝級の文物だけが、中華思想をベースに中国という国を代表する精神として一貫して伝わって来たことを考えると、中国史を文化財を通して見ることは至って自然なように感じます。  陳舜臣という作家はあまり意識しない作家です。それは縁が薄いからではなく、身近過ぎて取り立てて意識をしないという意味です。「十八史略」は踊り場の登り口などの必ず通るところに常に置いてあり、ちょっとした時間があるとペラペラとめくってはまた置いておく。そんなことをしているといつかは読み終わり、また最初から読み直す、そんなことを何回やったかすら分からないくらい繰り返しているのですが、毎回それなりに楽しめます。イザヤ・ベンダサン(実は山本七平)の「日本人とユダヤ人」が話題になりましたが、陳氏の同列の企画の「日本人と中国人」は、中国人の物の考え方を知る上で大変に参考になりました。「故宮」シリーズは、清滅亡後の近現代史は扱っておらず、中国の歴史を隈なくカバーしているとは言えないかも知れませんが、中国史を知る上で絶対に知っておかなくてはならない重要な宝物が一通り紹介されています。王朝名などで判りにくい箇所も多いですね。南北朝といってもどんな王朝が起こり、五胡十六国といってもどんな民族の王朝だったか、何度見てもすぐに忘れてしまいますので、気になる度に何度も見直しています。とにかく宝物の写真を見ているだけでも楽しくなりますし、中国史は何と言っても物語になりそうな人物や来歴の宝庫ですね。
影響のあった本 · 2021/07/25
7「空海の風景」司馬遼太郎
司馬遼太郎氏の奥様の福田みどりさんによると、「空海の風景」は司馬氏が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際には必ずこの作品を用いたそうです。また、大阪の司馬遼太郎記念館に所蔵される6万冊の蔵書は、自著の本を除くと大半が宗教関連の本だと言われています。すると、司馬氏が最も興味を持った日本史上の人物は空海だったのかも知れないという仮説が成り立ちます。それほど、空海の生涯は不思議の連続だったと言っていいでしょう。                 空海に限らず、一宗派を興こした人物は魅力的ですし、その生涯は面白いエピソードに溢れています。法然・親鸞は、来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する念仏で、民衆の心を捕らえました。道元をはじめとする禅宗は、ストイックな中に潔く大胆な決断を迫られた鎌倉武士に受け入れられました。日蓮はそれまでの宗教も時の幕府もすべて否定し、何と辻説法という一人だけの街宣活動から一宗派を形成するという信じ難い過程を辿ります。近世でも山中みき・赤沢文治郎・黒住宗忠、なども面白いですし、出口なお・出口王仁三郎の大本教は、明治政府を本気で怒らせ、国が嘘の罪状を並べてでも撲滅しなくてはと躍起になるほど社会に深く浸透しました。しかし、空海は不思議のスケールが一段高いような気がします。                                      さて、宗教家が一宗派を成す過程では、時の権力から何らかの迫害があるのが常ですが、空海だけはそれがありません。迫害どころか、時の最高権力者である嵯峨天皇が空海の魅力に心酔し全面援助をしました。また、何百年にも渡り日本社会に君臨することになる藤原氏とも、何とも円満な関係を築きます。空海が権力に取り入ったということでは決してありません。現世の権力は、理屈や理性ではなく私欲で動きますから、放っておくと何をしでかすか分かったものではありません。そのことをよく理解していた空海は、「教王護国」「鎮護国家」などと説くことで権力側に恩を売り、書道を始めとした文化面で嵯峨天皇の心を鷲掴みにしました。また、空海より遥かに社会的地位の高い最澄さえ、宗教序列では下位においてしまいます。空海の行為は、密教世界の社会的な浸透という極めて学究的な目的であったために、後世の日本人から批判されることもありません。批判されるどころか、「空海が杖を突くとそこから清水や温泉が湧いて出た…」との伝承が日本全国遍く広がっています。それは“高野の聖”が全国を回って広めたのだという説明はつきますが、空海伝説になってしまうところが空海の魔力と言うべきでしょう。                                                         空海の不思議さを述べたら尽きませんが、密教最高位の地位を譲られる場面は圧巻です。805年、密教の中心地である長安・青龍寺に入ると直後に、密教第七祖・恵果(けいか)和尚より密教の奥義伝授を受けます。つまり、日本から来たばかりで初対面の青年に、恵果は「あなたが来るのをずっと待っていました…」と述べ、中国密教最高指導者の位を譲ってしまいます。伝授の儀式がすべて終わると直後に、自分の役割が終わったかの如く60歳で入寂します。また、空海には、20年間唐で勉強して来るようにとの命令が課されていましたが、入唐して2年で学ぶべきことをすべて学んでしまったため、国家の命令に背き帰国してしまいます。遣唐使船は、空海帰国後30年間中国から出ることはありませんでしたから、806年の遣唐使船がラストチャンスで、命に背き2年で帰国する決断をしなければ、空海は日本に戻ってくることができなかったことになります。また空海は、中国で栄えた密教の経典・法具・曼荼羅などすべてを日本に持って来てしまいますが、そんなことをして良いのだろうか、という疑問が沸きます。しかし、空海が密教のすべてを日本に持ち帰った40年後に中国では仏教弾圧が起こりますので、結果的には密教が今日まで受け継がれるためには絶対に必要な決断だったことになります。単なる偶然として片づけてしまうには余りにもタイミングが良く、恵果も空海も、まるで未来を予測できていたかの行動としか思えません。  空海の本名は、佐伯マオです。マオというと、大地真央や浅田真央を思い浮かべるほどに、何とも現代的な響きですね。マオの字は真魚と書きますが、親の真意は不明です。書や語学の達人で文科系かと思いきや、その精力的な行動を見ると明らかに体育会系の体力です。空海が雨乞いをすると、不思議に雨が降り世間を驚かせたようですが、天文学の知識があり天気予測ができたので、雨が降りそうな時期を狙って雨乞いの儀式を行っただけです。すると、理科系の知識もあり、演出者でもあった訳です。身分の高い者しか高度な教育を受けることができなかった時代に、一般庶民でも志のある者なら誰でも学べる施設である綜芸種智院(現代の私立大学)を作りましたので、教育者でもあり社会運動家でもありました。それでいて、ビッグネームにありがちな、如何わしさのような影は微塵もありません。天皇や藤原氏を手玉に取り、後世の民衆の心までも捉えてしまう、正に万能の人ですね。

さらに表示する