私の人生に切れ込んで来た音楽

1 チューリップのアップリケ 岡林信康

曲の内容…大阪の小学校低学年の女の子が、学校の宿題に書いた作文で、母が貧しさから家を出てしまいます。大人の不可解な行動に戸惑いながらも、貧しくとも両親には仲良くして欲しいと、子供目線で必死に訴える、そんなストーリーです。                                  私自身の家庭の問題ではなく、社会全体の問題として家庭問題を強く意識するきっかけになった曲です。自分自身の両親にはいろいろと問題があり、子供ながらに言いたいことは山ほどありましたが、両親が離れて生活することはありませんでした。そうであるからこそ余計に、曲の少女の心情に引き込まれてしまいました。当時は、好きな歌を聴くには、ラジオで流れる偶然を来たするしかありませんから、その偶然に出会ったときは歌詞もメロディーしっかりも心に刻み込むように聞き入ったと思います。岡林信康は、その後糸んなチャレンジをしたものの、音楽会でメジャーになることはなく、今は知る人も殆どいないのかもしれません。が、私のMusicLifeの出発点だったような気がしています。

2スカボローフェアー サイモン&ガーファンクル


Simon&Gurfunkelは、「心に切れ込んだ…」ではどうしても外せないデユオです。「明日に架ける橋」「ボクサー」「四月になれば彼女は」など、心に残る歌ばかりで、今でも歌詞を思い出せるかも知れません。S&Gが活躍していた時期がギターを覚えたての頃と重なり、簡単には弾けないが少し練習すれば弾けるようになるという、丁度手ごろな曲が多かったと思います。そんな中から一曲を選ぶのは難しいですが、やはり「ScarboroughFair」でしょうか!                                             Are you going to Scarborough Fair?                                             Parsley, sage, rosemary, and thyme…そうです、ダスティン・ホフマンとダイアナ・ロス主演の「卒業」の挿入歌です。最初に観たのは中3か高1くらいでしたでしょうか。何だかとても大人の映画のように感じました。主題歌は「Sound of Silence」ですが、スカボローフェアーは、赤いオープンカーでサンフランシスコ湾に架かるベイブリッジを走るシーンのバックに流れていて、曲と景色が見事にマッチしていて忘れられないシーンの一つです。このシーンにあこがれて、極貧の学生時代に無理をしてアメリカに渡り、カリフォルニアを回ってくるきっかけとなりました。スカボローフェアーは、スコットランド民謡なのですね。NHKの名曲アルバムで知りました。歌詞は色んなバージョンがあるようです。また、和食を料理する再の調味料を”さしすせそ(佐藤、塩、酢、醤油、味噌)”で覚えますが、イギリス人は料理の際の基本のシーズニングを、”Parsley, sage, rosemary, and thyme…”と口ずさんで覚えるのだそうです。これは京都大原に移住したイギリス人のベニシアさんの番組で何度か言っていました。  ブログトップページ

3坂本龍一 炭鉱のカナリアたれ


このシリーズでは、どうしても坂本龍一氏を取り上げたいと思っていました。高校の4学年上の先輩で、高校には色んな逸話が伝わっています。高校入学の時には古今のあらゆる音楽理論を習得していて、周囲からは“博士”とか“教授”と呼ばれており、音楽の先生からも一目置かれていたと言います。本人もそう呼ばれることに戸惑いはなかったようですが、周囲が自分をどう呼ぼうがそこには関心がなかったのだと思います。また、時間があると図書館に籠り、あらゆるジャンルの本を読み漁っていたと伝わっています。        幅広い音楽活動の中で、YMO時代の“テクノミュージック”は衝撃で、一時代を築きました。坂本氏のファッションや音楽スタイルに嫌悪感を抱く方も多いと思いますが、その後の活躍を見れば単なるヒッピーやお道化ではなかったことが解りますね。        ところで、私の嫁さんは三重県の出身ですが、ちょっとした旧家だったようです。古くは高野長英が幕府から追われ逃亡している中で潜伏していたそうで、襖に名前を書き残しています(この部分は現存)。また、甘粕正彦が服役後に短期間潜伏していたとも伝えられています(この痕跡は消し去ったようです)。映画「ラストエンペラー」で坂本氏は音楽を担当すると共に、甘粕大尉も演じており、妙な縁を感じています。                                                 高校時代は現自民党塩崎恭久議員らと共に、意見対立した校長を部屋に閉じ込めるなど、若い頃より政治的活動やメッセージを発してきました。そんな中で、再三に渡り強く発しているメッセージがあります。                          アーティストは炭鉱のカナリアたれ!                                           炭鉱に入る際にカナリアを連れて行くそうですね。人間が気付かない有毒物質が坑内に発生していると、いち早く反応するからです。『そのカナリアのように、権力側に少しでも危険な動きがあればいち早く反応することこそアーティストに求められている役割である…』とのメッセージです。そのような視点で坂本氏を見ると、見事に整合性が取れているのが見えてきます。政治的な先導はしないが、政治権力の監視者であり続ける姿勢に改めて敬意を表します!  https://binged.it/2Lgy6hv ブログトップページ

4「詩人と私」フランク・ミルズ

レイモン・ル・フェーブル、ポール・モーリア、アルフレッド・ハウゼ、カーメン・キャバレロ、ニニ・ロッソ、リチャード・クレーダーマンなどなど、所謂イージーリスニングと呼ばれるジャンルの作曲・編曲・指揮・演奏などを行うアーティストたちです。歌のある音楽も良いですが、歌のない演奏だけの音楽も本当に素晴らしい曲がたくさんあります。どれか一つの曲、一人のミュージッシャンを選ぶのは大変ですが、私はフランクミルズの「詩人と私」を選びました。                     最初に聞いたのはいつだったか、それは思い出せないが、無意識のうちに誰もがどこかで聞いたことがある。果たして、日本人でこの曲を聞いて不快に思う方がいますでしょうか?いつ、どんな精神状態のときに、何度聞いても心地よい、そんな曲だと思います。                       ある時、音楽の魔術師、ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」が流れていて、側にいる30代の同僚に話しかけたら、何と「ポール・モーリアという人は知らない…」と言われました。40代の方に振ってみても「ポール・モーリアは知らない…」という返事です。50代の方で何とか「知っている…」という返事を貰えました。フランクミルズは更にマイナーでしょうから、名前を知っている方は稀かも知れません。                                                   「詩人と私」は、1979年リリースの、「愛のオルゴール」の中に入っていた一曲です。作曲したフランクミルズはカナダ人ですが、その旋律は日本人の心の中に自然に溶け込んで来るようで、“昔から日本に伝わるメロディーである”と思っている方も多いようです。また、この曲はドイツで一番高く評価され、最もヒットしたようです。ドイツ人と日本人は似ているとよく言われていますね。いくつものラジオ番組のテーマ曲や挿入曲になっているのも一因でしょうか。アルバムタイトルになっている「愛のオルゴール」の曲は、日本では「潮風のメロディー」とのタイトルで高田みずえが歌いヒットしました。   https://binged.it/2zgzkXe   ブログトップページ

5小さな恋のメロディー ビージーズ


ゆっくりとしたチェロの前奏に続き、                                           Who is the girl with a crying face…                                             本当に忘れられません。1971年(昭和46年)、イギリスの無名の監督アラン・フセインが実験的に作った映画で、予算は殆ど与えられなかったために、高額の出演料を払わなければならない俳優は一人もおらず、音楽もとにかく安くあがるメジャーでない歌手が使われました。しかし、そのことが映画や音楽に何とも新鮮なイメージを与えることになり、日本を中心に世界的なヒットにつながったようです。                                                         主題歌を始め、殆どの挿入歌を担当したビージーズですが、初期の「マサチューセッツ」が全米ヒットチャートの上位になったと思います。また、世界的なディスコブームの中で、ディスコサウンドのトップランナーでした。しかしその中間の、「小さな恋のメロディー」の映画音楽があって初めてビージーズがビージーズとして存在し得る、と私は(勝手に)思っています。           昭和40年代、中学生は父兄同伴でないと映画館に行ってはいけない、そんな時代でした。しかし、学校でいくら注意しても抑えられないほどこの映画が話題となっていました。困った中学校側は、一層のこと学校で上映してしまえば、学校も生徒も丸く収まるということで、全国の中学校の体育館でこの映画が上映されたと聞きます。                              オリジナルタイトルの”Melody fair”の”fair”ですが、『公正な』、『市場』との意味ではなく、『(親愛の情を込めて)金髪の』との意味であるとうことを理解できたのはずっと後のことでした。『金髪が可愛らしいメロディーちゃん』との意味のようですね。https://binged.it/2WChg1G  ブログトップページ

6キャンディーズ ファイナルコンサート


1978年(昭和53年)4月4日、人気絶頂だったキャンディーズが解散を決め、現役最後のコンサートが、まだドームになっていない後楽園球場で行われました。私は大学の体育会系サークルに所属しており、その日は春の合宿中で、大学の構内にある合宿施設で寝泊まりしていました。コンサートのチケットを買うような余裕はありませんが、ライブ放送されるテレビ映像はどうしても見ておかなくてはと思い、何と合宿所を抜け出し自転車で5分の下宿で見ていました。                             アイドルやアイドルグループに夢中になる現象は、青年期特有のニキビのような症状で、誰でも発症しいつしか時間と共に消えて行く、そんなものではないでしょうか。学生時代はレコードを買うような余裕はありませんでしたから、今手元にあるアルバムは社会人になってからどこかで手に入れたものです。キャンディーズはデヴュー当時こそアイドルアイドルしていましたが、最後の1~2年は今でもじっくりと聞くことができるような良い曲をたくさん歌いました。「銀河空港」「わな」「哀愁のシンフォニー」などは、今の人にも十分に聞いて貰える内容だと思います。解散を決意した理由が、「普通の女の子になりたい…」というものでした。アイドルにプライベートな自由が少なかった時代に、彼女たちのコメントはファンや社会から好感を持たれ、その後アイドルが本音を言いやすい雰囲気ができるきっかけとなりました。                                           さて、極貧の学生時代でしたから、レコードやコンサートチケットなどは手が届くものではありません。しかし、活躍中のアイドルや歌手の舞台を無料で見ることができる方法がありました。それは、今もあるのでしょうか、公開番組です。岡崎友紀・堺正章の『紅白歌のベストテン』『8時だよ・全員集合』などは、チケットを無料で入手することができました。1971年(昭和46年)、伊豆修善寺の中学を卒業し親元を離れ、東京での一人生活が始まったばかりの年です。「紅白歌のベストテン」の会場は渋谷公会堂で、通っていた高校から近い場所だったので、収録のある日にはよく出かけました。伊豆の田舎にいたら絶対にできない経験で、「やはり東京は凄いところだ…」と、どこを見ても眩しく感じていました。昭和46年は、南沙織・小柳ルミ子・天地真理・五木ひろし・麻丘めぐみ・野口五郎・郷ひろみ・西城秀樹(47年デビュー)などの、アイドルや後の大スターたちがデヴューした年でした。収録後に、デヴューしたてのアイドルを売り出すために、舞台中央の客席から手が届く場所で希望者に握手をしてくれるサービスがありました。私は、客席のたいてい最前列の真ん中で見ていたので、殆どの新人歌手と握手をしたと思います。今思うと貴重な体験だったと思います。『8時だよ…』は土曜日の生放送で水道橋の後楽園ホールでの収録でした。ここにキャンディーズが準レギュラーのように出ていた時期がありました。 ブログトップページ

7アイドルを探せ シルヴィー・バルタン


 ご存じ、フレンチポップスを代表するアイドルです。1960年代から70年代にかけて世界的に活躍し、2020年の現在でもCMなどに使われています。若い方でどんな歌手か顔を見たことがないという方でも、曲を聴けば「あ~、あの曲か…!」と思い出すのではないでしょうか。前の東京オリンピックの1964年には、パリでまだ売り出し中のビートルズを前座にコンサートを行っています。久々にユーチューブでシルヴィーを聞いてみましたが、やはり魅力的な歌手だなと改めて思いました。下にアドレスがありますから、よく知っている方も知らない方も一度聞いて下さい。代表作は「アイドルを探せ」ですが、CMに一番登場するのは「あなたのとりこ」で、この曲が日本人には一番人気のある曲かも知れません。モーツアルト交響曲40番の有名な出だし「チャチャチャー・チャチャチャー・チャチャチャーチャー…」の旋律は、モーツアルトの曲よりシルヴィーの「哀しみのシンフォニー」で先に聞きました。そう云う方は結構いるのではないでしょうか?                                              さて、昭和40年代、新宿西口の小田急デパート(小田急ハルク)6階と7階のツーフロアーに、ナショナル電気のショールームがあり、その中にオーディオコーナーがありました。ナショナルのオーディオ製品はテクニクスと言ったのでしたか?とにかく、普通には絶対に手の届かないようなステレオなどがずらり置いてあり、自由に使わせてくれました。ステレオを使う際のレコードも大量に置いてあり、これまた自由に聞かせてくれました。高校の校門から歩いてすぐの場所だったので、ここでシルヴィー・ヴァルタンをとにかくよく聞いたものです。                                                 都立高校は私服と決まっていましたから、平日に私服で新宿駅付近をふらふらしていると、補導員から声をかけられることがありました。                                                         「君はいくつなの?」「19歳です!(実は16歳)」                                      「どこに行っているの?」「代々木ゼミナールに行っています」                                  これくらいは咄嗟に言い繕うことができるので、向こうも心得ているものです。                          「干支は何なの?」                                                      これは咄嗟には対応できませんね。しかし、それも年齢と辻褄が合うように返事を用意していました。                 新宿駅西口では本当に色んなことがありました。一度だけ、怖いお兄さんに“喝上げ”をされたことがありました。“喝上げ”は言葉も行為もまだあるのでしょか。とにかくその怖いお兄さんに、高校生のなけなしの何百円かを巻き上げられてしましました。           「もう行っていいぞ」と、怖いお兄さんから放免されたのですが、最後に私はそのお兄さんに言いました。                 「お金を全部持っていかれちゃうと、電車賃がなくて家に帰れないんですが…」                           すると、その怖いお兄さんは心配そうに、                                           「そうか、家までいくらかかるんだ?」                                             と言って、何と、家までの電車賃を返してくれました。本当に情のある“喝上げ”のお兄さんでした。                 「アイドルを探せ」https://bit.ly/30c3uGi                                            「あなたのとりこ」https://bit.ly/2MMDiuh

8オリンピックマーチ 小関裕而


山田耕作、中山晋平、団伊久磨、遠藤みのる、古賀政男など記憶に残る作曲家はたくさんおりますが、その質・量・幅広い分野・時代を超えた普遍性、などを見るとやはり古関裕而氏に行き着くと思います。そんな古関氏の作品から一つを選ぶのは無理だと解っています。作曲家として世に出るきっかけとなる「紺碧の空」にしようかと迷いました。最初に聞いた時は本当に痺れましたが、稲門ではありませんので少し遠慮し、「オリンピックマーチ」を選びました。本当に多分野に渡る曲を残していますので、少し整理してみます。           1、応援歌・校歌                                                       記録が残っているだけで350校以上の学校・団体の校歌・応援歌を残しているそうです。面白ことに、早慶の「紺碧の空」「我ぞ覇者」、巨人阪神の「闘魂燃えて」「六甲おろし」など、ライバルチーム双方から依頼され、それぞれがチームを代表する曲として歌い継がれていることです。どの曲も、胸がスカーっとするメロディーですね。夏の高校野球選手権の「栄光は君に輝く」も夏の風物詩になっていますね。  2、戦時下の歌                                                        「露営の歌(勝って来るぞと勇ましく~)」「若鷲の歌(若い血潮の予科練の~)」「暁に祈る(あーあーあの顔で~)」「愛国の花(真白き富士の~)」、どれも一回聞けば頭に焼きついてしまうメロディーばかりです。「…戦意を高揚することなど考えたことはなかった。ただ、純粋な精神を持った若者を応援し、ご家族を少しでも励ましたかった…」古関氏は、この時期のことをそう語っています。そう思って聞くと、より悲しくなってしまいます。                                              3、歌謡曲・逍遥歌                                                     「イヨマンテの夜」「君の名は」「長崎の鐘」など、この分野でも多くの曲を残しています。「夢淡き東京」「三日月娘」「高原列車は行く」などもいいですね。何と「モスラ」の曲も古関氏の手によるものなのですね。                          4、マーチ                                                          どの分野の曲も素晴らしいですが、やはり“マーチの王者”と言われるように、代表分野は何かと言われればマーチでしょう。「スポーツショー行進曲」を聞きながら育った方も多いのではないでしょうか。代表作は何と言っても「オリンピックマーチ」でしょう。次の東京オリンピックの入場行進でもこの曲を使ってもらえることを願っています。そう思っているのは自分だけかと思っていたら、そのように思っている方が案外いるようですね。この曲以上の行進曲を作る方がいるようなら、見てみたいものです。                     生涯で5000曲以上を作曲したそうで、作曲を依頼されると、ほとんどの場合メロディーが頭の中に次々と沸いて出てきたと言いますから、天才と言ってもいいと思います。「紺碧の空」の作曲で一躍世の注目を集める作曲家となりましたが、早稲田の活躍に引っ張られた面もあり、恩義を感じていたようです。「若き血」に対抗する意図で「紺碧の空」ができたようですが、戦後になり今度は「紺碧の空」に対抗できる応援歌を作ろうと慶応が古関氏に作曲を依頼すると、「早稲田さんの承諾を得ていただければお受けします…」と応じたそうです。福島県人らしい義理堅い面が伺われます。できた「我ぞ覇者」は、作曲した時点では歌詞はなく、後に歌詞をはめ込んだようです。「…早稲田を倒せ!」の歌詞に対抗心を隠していないことが面白いと思います。1964年東京オリンピックに照準を合わせ、東名高速道路・新幹線などのインフラが整備されました。そして「オリンピックマーチ」は、敗戦で打ちひしがれていた日本人復活の精神的シンボルだったと思います。オリンピックが、プロは参加できずアマチュアだけの大会で、金銭利益を目論む大会でもなかったため、日本中が心から応援できたイベントでした。ボブ・ヘイズ、チャスラフスカ、ヘーシンク、アベベ、東洋の魔女…、ついこの間のことのようです。昭和52年、「栄光は君に輝く」が大会歌となった30周年記念として、古関氏は開会式に招待され、甲子園で自作の曲を聴いた時は感激されたようです。また、この大会には古関氏の母校・福島商業高校も6回目の出場で初勝利を遂げ、古関氏作の校歌「若きこころ」が初めて甲子園で流れ、これまた感激されたそうです。依頼された仕事を淡々とこなし、美しい作品を多く残す、正に日本の誇るべき職人ですね!     https://www.youtube.com/watch?v=g0uRDANnEbU  ブログトップページ

9 旅人よ 加山雄三


 ある意味で、これほど万能なタレントさんも珍しいのではないでしょうか。スポーツ万能で、国体出場の経験があります。歌も高音から低音まできれいに出て、声は何とも魅力的で、作詞作曲家としても成功しいていて、持ち歌のヒット曲は殆ど自作です。楽器演奏はギターやピアノなどプロ並みの腕前で、インスツルメンツだけでも客は呼べるでしょう。勿論ルックスは抜群に整っていて、清潔感溢れる俳優としても成功し多方面に活躍を続けていて、80歳を過ぎた今でも現役で仕事をばりばりこなしています。どれか一つでもあれば十分に芸能界でやっていけそうですが、これらすべての才能があるのに、近寄り難さのような気取りはなく至って自然な立ち振る舞いです。                                                         昭和40年から41年にかけて、世は加山雄三で明け加山雄三で暮れる、そんな一大ブームが吹き荒れました。代表曲「君といつまでも」は少なくとも2~300万枚は売れたようですが、現在のような正確な数字を追う仕組みがなく、どのくらい売れたのかは測定不能だったようです。以後、出す曲がことごとくミリオンヒットでした。さらに、加山雄三の場合、単に歌がヒットしたとか人気があったという次元ではなく、本業の映画「若大将シリーズ」も、作れば大ヒットでした。その後、多少の波はあったものの、芸能界の第一線を走り続け、50数年後の現在でも現役で活動をしています。私も、子供のころから夢中で聞いていました。子どもの頃に夢中になった歌ですが、今聞いてもその当時感じた透明な新鮮さを感じます。「ある日渚で」「恋は紅いバラ」「蒼い星屑」「夕日は紅く」など良い歌はたくさんありますが、一曲を選ぶとしたらやはり「旅人よ」ですね。弾厚作の作曲では、半音を効果的に使う曲が多いと思いますが、「旅人よ」でも半音が何とも効果的に疲れています。                                     加山雄三は両親ともに有名タレントさんですが、進学や仕事において親が著名人であることを利用した形跡はなく、むしろ親の影響が及ぶことを避けていた感があります。高校受験の際は自分で何校か(慶応・都立日比谷・早実)見学に行き、慶応高校にプールが二か所あることが気に入り、猛勉強で合格を勝ち取りました。特に英語の勉強に力を入れたようで、会話はペラペラとなりアメリカの永住権を取得しています。一番最初に作った曲の歌詞は英語でした。ビートルズ来日のホテルを訪問した際には、ジョン・レノンから後ろ目隠しをされるほど打ち解けている写真が残っています。持ち歌の歌詞は岩谷時子が担当していますが、作曲はほとんどが弾厚作、つまり加山雄三自身の手によるものです。弾厚作というペンネームですが、團伊玖磨の團と、山田耕作の耕作をミックスした名前かと予想して調べてみたら、やはりその通りでした。芸能生活は半世紀以上というのにスキャンダルは1度もありません。本当に息が長いタレントさんで、正に永遠の若大将です。                                  https://bit.ly/3dj7c47  ブログトップページ

10ドナ・ドナ・ドナ ジョーン・バエズ


この歌について詳しいことは知りませんでしたので、調べてみるとイーディッシュ(ユダヤ語)の歌なのですね。日本では、1964年デューク・エイセスの「花はどこへ行った」のB面が最初だったようで、1966年に、NHKの「みんなの歌」で、安井かずみ訳の歌詞で放送されたようです。多分、私はそこで初めて聞いたのだと思います。本当に悲しい歌です。子牛が貨車の中から悲しげな眼を見せている様子は、ユダヤ人が貨車にぎゅうぎゅう詰めにされ、収容所に送られる様子とイメージが重なってしまいます。ホロコーストの隠喩としての歌ではないようですが、そこに自分の身を置いてみることで痛みが少しでも理解ができるように思います。                      このシリーズで、ジョーン・バエズを選ぶ時点で、年代と思想傾向がある程度判ってしまいますね。「ウッドストック」の映画を観たのは10代だったと思います。とにかく衝撃的な内容でしたが、そこに出ていたミュージッシャンで覚えているのはジョーン・バエズだけです。それほど彼女の声が印象的でした。そこで彼女は何曲か歌ったと思いますが、「Joe Hill」が何とも印象的で、今でもそのシーンはよく覚えています。それ以後注目して見てみると、あらゆる反戦フォークを歌っていたのですね。そういう時代だったのでしょうか、歌は何らかの社会的メーッセージを含んでいるものである、そう思っていました。ある種の偏った思い込みだったと思いますが、その基準で見るとジョーン・バエズはお手本のようなミュージシャンで、生ギター一本だけのスタイルも大好きです。「花はどこに行った」も捨てがたかったのですが、「ドナドナドナ」をこの1曲に選びました。                                             動物を見る際に、まず目を見ますね。特に食肉になる家畜の目には心を揺さぶられるものを感じます。人間の身勝手さを、許しているようでもあり、諦めているようでもあります。が、決して恨んだり、非難がましい感情を持っているようにも思えません。生を受け、淡々と日々を過ごし、自分の運命を知ってか知らずか、人間を恨むこともなく、成されるがままに生を閉じて行く。何とも愛おしい生き物です。                                                       ライオンを檻から放ち、逃げ出したところを拳銃でズドンと撃ち殺してしまう。直ぐそばに寄り、今撃ち殺したライオンと一緒に写真を撮り、国に帰ると仲間に「俺がライオンを撃ったのだぞ…」と散々自慢して回る。そのライオンを手配するビジネスが流行っていて、年間200頭前後のライオンが犠牲になっているそうです。ライオンはまだ安い方で、象やサイなどは最も値が張るのだそうです。人間が神から叱られ、自然から逆襲されても仕方がないですね。スペインの闘牛も、何も罪のない牛を嬲り殺しにしてしまう見世物ですから酷いと思います。“相手が牛だからいい”ですか?スペイン人は人間を相手にも同じようなことをやって来ましたよ!そういう私も、肉や魚も食べますので、その点ではいつかお仕置きされても仕方がないかと覚悟していますが、感謝と申し訳ない思いは忘れないようにしています。   https://bit.ly/2YPi9GF  ブログトップページ

11 夏休み 吉田拓郎


 “夏休み”、何とも甘酸っぱく耽美な響きの言葉です。この期間には、原爆投下の記念式典があり、終戦記念日があり、お盆があります。都会生活の方もこの時期故郷で過ごすこともあると思います。蝉の声と(今年は残念ですが)高校野球の実況を聞きながら、いつもとは異質の空間で時間を過ごすことができます。冬休みでも春休みでもなく、夏休みは特別な精神状態になり、誰もが特別な体験をするものではないでしょうか。吉田拓郎の「夏休み」はアルバム「元気です(1971年)」に入っている曲ですが、今「元気です」を見返すと凄いラインナップだと思います。「線香花火」「親切」「たどりついたらいつも雨降り」「間にあうかも知れない」「旅の宿」「祭りのあと」などなど、今でもカバー曲としてリリースすれば、ある程度のヒットは見込める曲ばかりのように思います。吉田拓郎の曲は、ギターを覚えたての者でも気軽に歌える曲ばかりで、多くの若者が仕事や勉強の合間に口ずさんだものだと思います。青年期は、経験不足から不安を感じたり、妙に自信を持ってしまったり、社会の不合理に気づき始めることで理想主義に走ったり、はたまた権威主義に背を向け反抗してみたりと、日替わりで内面の景色が一変してしまうのが常でした。そんな青年期の不安定な内面を見事に描いた歌詞が多くの若者に支持されました。拓郎の曲の歌詞は字余りで、メロディーは突拍子もなく音が飛ぶのが特徴で、教科書的には落第かも知れません。が、それがかえって束縛から解放されたところで曲つくりをしている印象があり、それも拓郎の魅力になっています。「…信じる物があったとしても、信じない素振り…」、「…ああ、この気怠さは何だ…」、「…口を閉ざすんだ、臆病者として…」、「…いつか失った怒りを胸に、別れを祝おう…」、「…教えられる物に別れを告げて、届かない物を身近に感じて…」、もう何十年も前に聞いた歌なのに、ふと思い出しただけでいくつもフレーズが蘇ってきます。                    「夏休み」の歌詞は、故郷の広島の原爆投下に対するメッセージソングではないかとの見方がされることがありますが、吉田拓郎本人はそれを躍起になって否定しています。「子供だった時代の懐かしい風景を描いた絵日記で、“姉さん先生”も“畑のトンボ”も、すべて僕を育ててくれた“夏休み”なのだ。反戦歌などでは断じてない…!」青臭い反戦歌を作ろうとしたのではないかと思われることへの恥ずかしさなのかも知れませんが、この「夏休み」は「純粋だった子供の頃の心情を素直に描いた詩であり、イデオロギー色が少しでも入ったもので汚されたくない」、拓郎のそんな思いを強く感じます。麦わら帽子、田んぼのカエル、綺麗な先生、絵日記、花火、畑のトンボ、スイカ、水撒き、ひまわり、夕立、蝉の声…、みんながそんなもので幸せな気分に浸ることができた時期が確かにありましたね。                                                          仕事や学校の勉強に追われていると、時間や仕事に追われることのない自由を望みます。夏休みはその自由が一時的に手に入る期間です。さて、「鶏と卵」「光と影」「物質と空間」のような哲学的テーマがありますが、これらの一方は、もう一方の存在があって初めて存在できる関係にあります。「自由」というものも、それ自体では存在できず「不自由」があって初めて「自由」の概念が成り立つものかも知れません。生活の中の不自由は、自由を満喫できるために必要なものであると思えば、少しは頑張る気持ちが起きてくるのかも知れません。ということで、待ち遠しい夏休みを夢見てもう少し頑張りましょう。             https://binged.it/2DsuKre  ブログトップ