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羽生善治の百夜通い

一つの敗北

 2018年、12月21日、午後6時49分、挑戦者である広瀬章人八段の167手目を見て、羽生善治は頭を下げた。将棋のプロ棋士である以上、勝ち負けがあるのは特別なことではないが、この一つの負けが持つ意味は余りにも大きく、何とも因縁めいていると言わざるを得ないのではないでしょうか。この舞台に至る経緯を見てみましょう。

 羽生善治は、1970年9月27日生まれで、1991年(平成3年・二十歳)3月に2つ目のタイトルである棋王のタイトルを獲得して以来、2018年(平成30年)12月20日までの27年(10140日)間、常に何らかのタイトルを保持していた。そして、積み重ねたタイトル数が99タイトルで、この竜王戦のタイトルを守れば通算で100タイトルになるという、節目のタイトル戦である。しかも、この大きな意味を持つタイトル戦も3勝3敗のタイとなり、最終局で羽生が勝てば通算100タイトルとなるが、最終局で敗れれば100タイトル奪取は達成できず竜王のタイトルを失うこととなる。のみならず、すべてのタイトルを失い、27年ぶりの無冠となる。文字通りの大一番である。そして羽生は敗れた。

 一つの負けは単なる巡りあわせで、無冠になったことやタイトル数が99で止まったことにはそれほど意味はない、そんな見方をする方も多いようです。しかし、149で止まって150に届かなかったのではなく、79で止まって80に届かなかったのでもない、100に届かず99で止まったことに妙な因縁を感じてなりません。99を漢字では九十九(つくも)と書きますが、古来より日本人は九十九という数字に特別な感情を抱いていたのではないでしょうか。最も有名な引用例は、世阿弥の手になる小野小町伝説でしょう。

深草少将の百夜通い(ももやがよい)・九十九通い(つくもがよい)
 小野小町は都に上ったのち、それは美しい女性に成長したと伝えられています。和歌の名手としても知られ、彼女の残した歌は「古今和歌集」「小倉百人一首」などに撰ばれ、『古今和歌集仮名序』では「近き世にその名きこえたる人」として六歌仙に、また藤原公任の『三十六人撰』では三十六歌仙の中のひとりとして数えられています。半実在・半架空の存在である小野小町ですが、伝説には事欠かず、百夜通いのストーリーもいくつものバリエーションがりますが、その中の一つをご紹介します。


 小町は、都では男たちに言い寄られても契りを結ぶことはありませんでした。そのつれない態度に、男たちのみならず女性からもいじめを受けたと言います。そんな宮中の生活に嫌気がさし、36歳の頃小町は故郷である小野の地に戻ってきます。しかし、京の都では小町が居なくなったことで嘆き悲しむ者たちがおりました。深草少将(ふかくさのしょうしょう)もその一人で、小町に思いを寄せ、遂に小町を追って身分を捨て、郡司代職として小野へ向かい、小町に想いを伝えます。このとき返事を待ったのが「御返事(おっぺじ)」と言われています。小町の返事は、百夜続けて自分の元に通い、亡き母の好きだった芍薬(しゃくやく)を植えてほしいという内容でした。ここに少将の百夜通いがはじまります。雨の日も風の日も、深草少将はせっせとシャクヤクを届けました。ついにこれで届けた芍薬が百になろうとする百回目の夜に、氾濫した川の橋が崩れ共に流されてしまい、達成寸前に失敗しまいます。

 

 いかがでしょうか?人間が触れてはならない、或いは、到達してはならない領域の表現として百という数を定め、いかに優れた人間がそれに到達しようと試みようとも、一歩手前までの九十九までが人間の限界である、という箴言であるとの解釈はどうでしょう。

 羽生善治という稀代の天才が、神の領域に到達することを望み、将棋の神様のところにその方法を尋ねてやって来ました。すると、将棋の神様は、「タイトルを百、私のところに届けたら、将棋の神になる方法を教えよう…」と伝えました。その時から羽生善治は、一心不乱にタイトルを一つ一つと取り続け、神様の許へ届けました。そして、九十九のタイトルを届け、ついにあと一つで百という数に届こうという、本当にすぐそこまで手に入れかけたタイトルを、あろうことか逃してしまいました。やはり、人間が神の領域に到達しようと望むことは、やってはいけないバベルの塔だったのでしょうか?しかし、小町伝説の深草少将は、百夜を目前にして死んでしまいますが、羽生善治には再チャレンジのチャンスは残されています。『…あと一つくらいはいずれ取れるだろう…』という類の、素人臭い観測は、プロの厳しい世界では通用しないでしょう。また、IC世代の若手が着実に力をつけている中で、タイトル挑戦者に返り咲き、タイトル戦でも勝利することは容易ではないでしょう。しかし、もし羽生がそれをやってのけた時には、今度こそ羽生善治を神と呼ぶべきですね。