一つの文明が滅んだのである。一回限りの有機的な個性としての文明が滅んだのだ。われわれにとってのおおきなもの、つまり文明が、いつしか喪失してしまったのだ。誰が日本を見捨てたのか。何が日本を見殺しにしたのか。その文明は、もう滅びたものなのだ。
「逝きし世の面影(渡辺京一著)」の冒頭です。現代社会の否定では決してありません。かつて世界から羨望の目を向けられていた文明を持つ国が確かにあった。その事実を伝えたいだけの動機でこの文章を書いています。そして、外国人の目に映った日本文明を紹介しようと思います。その中で、日本人の誰もが知る小泉八雲を中心に、八雲が見たいと思っていた日本とは一体どんな日本だったのかを考えて行きたいと思います。
やや国籍不明ぎみの八雲(ラフカディオ・ハーン)ですが、父母を通じて地球上の東西および南北の血が自分の中に流れているという自覚を持ち、生涯を通じてアイルランドからフランス、アメリカ合衆国、西インド諸島、日本と浮草のように放浪を続けました。しかし、ハーンが人生最後の14年間を過ごした日本は彼にとって特別な地であったはずです。各地で記者などの職を転々としていた八雲が来日を決意した直接のきっかけは、エリザベス・ビスランドという後輩記者の記述でした。
1889年11月、ニューヨーク・ワールドは、ジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』の主人公フィリアス・フォッグによる80日間の空想旅行を上回る試みとして、ネリー・ブライ記者を世界一周に派遣すると発表した。この耳目を集める宣伝を受け、創刊から3年しか経っていない雑誌『コスモポリタン』を買収したばかりのジョン・ブリスベン・ウォーカーは、エリザベス・ビスランドを対抗馬として急ぎ世界一周旅行に派遣させた。その経過は、『コスモポリタン』誌に旅行記として連載され、後に単行本『In Seven Stages: A Flying Trip Around The World』(1891年)として刊行されました。その記述を読んだハーンは感銘を受け、日本行きを決意したようです。
…とても清潔で美しく、人々も文明社会に汚染されていない夢のような国であった…
実際に2日間日本に滞在したエリザベス・ビスランドが、日本に対して感じたままを記述した行です。芝の東照宮を見て感嘆し「我もアルカディアにありき」と記しています。また、ハーンの来日後も 親交を持ち、『ラフカディオ・ハーンの生涯と書簡(The Life and Letters of Lafcadio Hearn)』を刊行して好評を得たようです。しかし、”清潔で美しい”と感じ、”文明社会に汚染されていない夢のような国”と感じたのはビスランドの個人的で特殊な感想であったのか、それとも来日した外国人の一般的な感想だったのか、また他の外国人はどんな感想を持っていたのか、などを見ることで、ハーンが憧れ、見てみたかったと願った日本とはどのような姿だったのかを見て行きます。
小泉八雲が見たかった日本 2モースの見た日本 3バジル・チェンバレン