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山城屋事件と瀬戸石皿

山城屋事件

近代日本初の汚職事件と言われるこの事件は、明治5年(1872年)に発覚した。 山縣有朋が陸軍省の公金を同郷で親交があった陸軍御用達の商人である山城屋和助に勝手に貸し付け、その見返りに金銭的な享受を受けていたとされる事件山城屋和助は、騎兵隊の出身で山縣有朋とはかなり懇意であり、陸軍省官金65万円の無担保不正融資を受けた。65万円という額は、当時の陸軍省年間予算の1割にあたる額だと言われている。山城屋和助は、山縣から借りた金を元手に生糸相場に手を出したものの、暴落に見舞われ大損失を出してしまうが、それでも、見返りに金銭的な賄賂を受けていた山縣は、あろうことかさらに公金を投入した。山城屋は、仕事らしい仕事はほとんどせず、パリで豪遊していることが発覚し、新政府内で大問題となった。問題追及の先鋒となったのが、司法卿(現法務大臣)江藤新平であった。しかし、出来たばかりの新政府に不協和音が生じることを懸念した西郷隆盛が、山縣有朋に救いの手を差し伸べたことで、陸軍大輔は辞したものの、政治生命を完全に断ち切られることはなく、すぐに復権する。江藤新平のその後はご存知の通りです。余談ですが、明治10年の西南の役で、西郷隆盛を自刃に追い込んだ際の新政府側総大将は山縣有朋です。大恩人であるはずの西郷隆盛を擁する薩摩軍残党500人に対し、5万人もの新政府軍が取り囲み総攻撃を命じたのが山縣でした。

 

瀬戸石皿

一般名詞としては、皿型の磨製石器で穀物や木の実を磨り潰す目的で使用されたと考えられる道具の一つです。しかし、今は「石皿」と言えば、写真にあるような周りに低い囲いのような山がある、煮物などの料理を盛るために室町時代以降に瀬戸で盛んに焼かれた皿を指すのが普通です。当時はどこにでもある普段使いの皿で、石のようにずっしりとした感触から石皿と呼ばれるようになりました。さて、食器は今でこそ安価な食器ですが、室町時代や江戸時代には貴重品であり、裏面などに所有者の名前や所在を記入しておく習慣がありました。石皿は、本来絵付けをしたものは殆どありませんが、ごくまれに絵付けを施した石皿があり、それらは大変に人気でファンも多くいます。写真の石皿は、裏面どころか、見込(皿中央の一番、目が行く場所)の模様として所有者を筆書きしてある、大変に珍しい石皿です。伊万里焼などの時期の絵付けは、御須(ごす)という、焼きあがると美しい青色に発色する絵具を使いますが、石皿のような陶器の場合は、鉄釉(てつゆう)と言って、焼きあがると黒く発色する絵具を使いました。伊万里のような華麗さはありませんが、鉄釉独特の質朴さが大変な人気を呼んでいます。

 

山城屋文字石皿

さて、もうお分かりですね。この写真の石皿は山城屋事件で有名な山城屋が自社の名前を模様に施した石皿で、何枚くらい現存しているのか分かりませんが、時代を物語る大変に面白い皿であると思います。もう、30年以上前でしょうか、あるところで見つけた時は小躍りしました。直径が約45センチくらいで、てんぷらや煮物を入れて使っています。