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鎌倉殿の13人

その1ドラマの舞台


 2022年NHK大河ドラマのタイトルが「鎌倉殿の13人」であると聞いた瞬間、微かですが血が騒ぎました。鎌倉殿とは二代将軍頼家で、13人とは頼家を除いた13人の有力豪族のことです。頼朝亡き後、まだ18歳だった頼家が家督を継ぐことになりますが、若輩であったために13人の有力豪族による合議制で重要事項を決定しようということになりました。頼家は単なるお飾りであり、この13人が実権を握ることになります。プロレスのバトルロイヤルはご存じですね。十人前後のレスラーが一度にリングにあがり、一人一人消して行き、最後に残った一人がチャンピョンになるという形式です。正に鎌倉時代初期に有力豪族13人のバトルロイヤルが繰り広げられ、最後の一人に残ったのが主人公である北条義時(小栗旬)です。この大河ドラマは一人一人が蹴落とされて行く過程をドラマ化したものです。
 私は伊豆修善寺で生まれ育ち、中学校までそこで生活していました。修善寺というと温泉街を思い浮かべる方も多いと思いますが、温泉宿のある地域は町全体からすればほんの小さな地区で、地元では”温泉場(おんせんば)”と呼ばれています。勢力争いの過程で、修善寺に幽閉された頼家が温泉場で暗殺され、墓(2枚目写真)が設けられました。また、頼朝の異母弟でこれまた温泉場に幽閉・暗殺された源範頼の墓(3枚目写真)もあります。家は”頼家の墓”のすぐそばにあり、墓の周りの広場は子供たちの缶蹴り遊びの場でした。修善寺小学校へ通う途中には”範頼の墓”の近くを通るという縁で、今年の大河ドラマを楽しみにしています。ドラマの舞台は、鎌倉というより伊豆が中心であると思われます。地元の人間から見た伊豆・修善寺について、いくつかご紹介したいと思います。つづく

その2 源氏湯と混浴文化


修善寺の中の、ほんの小さな一地区である温泉場(おんせんば)で、元久元年(1204年) 頼朝の嫡男であり、二代将軍である頼家が暗殺されました。「愚管抄」には、「入浴中に北条氏の刺客に襲われ、激しく抵抗した後に絞殺された…」とあります。ドラマでどの様に扱われるのか、とても楽しみです。その風呂がどこだったのかについて、歴史学的には記録がないので特定できていません。が、地元では、頼家が暗殺された時に入浴していた風呂であると言い伝えられている風呂があります。
 狭い温泉場ですが、さらにいくつかの地区に分かれていて、頼家の墓のある地区は桂遊地区(けいゆうちく)と呼ばれていて、そのすぐ側に桂遊地区の住民が利用する共同浴場があります。地元ではその共同浴場を源氏湯(げんじゆ)と呼んでいて、そここそ頼家が殺害された場所であると言い伝えられています。私は、頼家の墓にも源氏湯にもほんの1~2分のところに住んでいたので、小学校の高学年までは当たり前のように源氏湯を利用していました。
 ところで、地元の老若男女が利用する源氏湯ですが、湯舟(バスタブ)が一つしかありませんし、洗い場や脱衣所も一カ所しかありません。そうです、源氏湯は混浴なのです。平成・令和の時代にどうなっているのかわかりませんが、私が利用している時はそうでした。その時には何の違和感もありませんでしたが、大人になって思い起こしてみると、とても面白い文化だったなと思います。
 修善寺は温泉地ですが、修禅寺というお寺の門前町でもあります。「空海が杖をつくと立ちどころに温泉が湧きだした…」との、お馴染みの空海伝説により、修禅寺は温泉地となり門前町となりました。お寺の境内で幼稚園を経営しているところがありますが、私も境内にあった修善寺幼稚園に2年間通いました。現在は子供の数が減り経営が成り立たなくなってしまったようで閉鎖されていて、幼稚園の跡地には宝物館が建っています。(写真1:修禅寺の境内、写真2:宝物館になる前は幼稚園の運動場でした、写真3,夜叉王の面)

その3 北条家の野望


 放送が近づいてきました。主人公である北条義時ですが、義時が率先して周囲の有力御家人を潰して行ったということではありません。主犯者は、実父の北条時政です。北条氏は、伊豆の小さな小さな豪族でしたが、頼朝が伊豆に流されたことからチャンスが生まれました。”保元の乱”で源氏は滅亡し、本来なら一族は抹殺されて然るべきであるのに、清盛が迂闊にも情けをかけ頼朝を伊豆への流刑に留めました。”伊豆に流す”という表現はとても不思議な表現です。伊豆は京都と地続きです。平安末期には、京都の人は伊豆が島だと思っていたようです。と言うより、伊豆が島であろうがなかろうが、京都からは絶望的に離れていて、そこへ流しておけばよもや息を吹き返すことなど考えなかったようです。頼朝が流された蛭が小島は、現在の伊豆の国市韮山町で、北条氏の拠点でした。
 頼朝の監視役である北条氏ですが、時政の実娘である北条正子と頼朝が恋仲になってしまいます。平氏からの目を気にする時政は激怒しますが、冷静に考えると、ひょっとしたら権力の座にのし上る足掛かりになるかも知れないことに気が付きました。そもそも、正子は単なる頼朝個人への恋愛感情ではなく、源氏の嫡流であることに可能性を見たことで接近したのだと思います。正子の権力を嗅ぎ分ける嗅覚は天才的なものがあり、時政も娘の天才性に賭けてみることになりました。そして、時政・正子親子の目論見は見事実現し、源氏も周辺豪族もすべて滅亡させてしまい、朝廷をも支配してしまいます。北条氏支配の源流は、偶然にも頼朝が北条氏の懐に入って来ることから、その微かな可能性を時政・正子親子が逃さなかったということでしょう。 北条家支配のMVPは、時政でも義時でもなく、正子にあげるべきでしょう‼️
 さて、義時は時政の実子ですが、前妻との子で複雑な事情から江間(えま)性を名乗っていました。韮山・北条寺の義時の墓石には北条義時ではなく江間義時と刻まれています。北条氏を名乗るのは、2代執権になった以降です。ドラマでどのように名乗るのか楽しみです。江間という地名は聞いたことはありませんか?”いちご狩り”で有名で、いちご狩り用のハウスが無数に立っている地です。北条氏の拠点である韮山町は小さな町ですが、全国的に有名なものがあります。韮山反射炉は世界遺産になっていますし、幕末に活躍した代官・江川英龍の館もありました。また、韮山高校は静岡東部では有数の進学校で、甲子園にも3度出場しています。3度出場していて、2度しか負けていません。つまり、1回は優勝していて、地元の誇りとなっています。また、時政は地元韮山に願成就院を建立する際に、仏像を作るために都から若き運慶を招きました。今でこそビッグネームですが、まだ定朝様式が主流だった時に運慶を選んだ先見性は見事です‼️運慶の仏像が五体もまとまって残っているのはここだけで、時政が残した大きな仕事の一つだと思います。

その4 鎌倉幕府開府論争と承久の変


「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」、ひと昔前はこの頃が定番でしたが、近年、鎌倉幕府の成立年代に関して色んな見解が示されています。

1180年説…鎌倉に頼朝の邸が置かれ幕府の原形となる侍所が設置された

1183年説…頼朝が従五位の下に就き、平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止し、元の国司や荘園領主に貴族させる権限を承認する、所謂東国統治権を付与した

1185年説…国ごとに主語を、荘園や公領に地頭を設置し、鎌倉統治が始まった

1190年説…頼朝が右近衛大正ににんぜられ、その居館が幕府と呼ばれるようになった

1192年説…頼朝が征夷大将軍に任ぜられる

歴史学者の方達は、それぞれの論を展開しているようです。全くの素人であるが故にフリーに物が言える身軽な立場で言わせていただくと、日本史上の中で国家的規模の大転換期として開府年代を特定するとすると、上記の年代はそれぞれ説得力があるとは思います。が、守護地頭の任命にしても、征夷大将軍の任命にしても、所詮は朝廷のお伺いを立て、朝廷が任命する形式を取っていますし、京より西半分は依然として朝廷の支配が続いていました。1221年の”承久の乱”を以ってして、鎌倉勢力の支配が全国に及び、朝廷の人事も北条氏の影響下に置かれる状況が生まれましたので、承久の乱こそ北条氏による国家規模の政権が成立した分岐点と捉えることが妥当と考えています。これには勿論、異論異説があると思います。

承久の乱

後鳥羽上皇は、新しく執権となった北条義時が朝廷の意思に従う人間かどうかを試すために、無理難題を押し付けますが、義時は拒否したことから、義時追討の宣旨(朝廷の正式な命令)が出されます。全国指名手配の身となった義時は動揺しますが、ここで千両役者の正子の登場です。「亡き頼朝様の恩は海よりも深く山よりも高い、その頼朝様が築いた鎌倉体制を壊そうとする上皇の命令など聞かず、鎌倉武士で一致団結して押し返そうぞ…」巧妙なレトリック(言葉による問題すり替え)ですね。後鳥羽上皇は”義時を討て”とは言いますが、”鎌倉体制を壊す”などとは言っていません。本当に正子は政治的駆け引きの天才ですね。

走狗煮らる

それにしても、後白河法皇、清盛、頼朝、後鳥羽上皇など、全く自己中心的にしか物を考えない人達ばかりですね。歴史の常ですが、平家打倒のために奔走した、木曽義仲・義経・範頼らは、頼朝に難癖をつけられすべて抹殺されてしまいます。禍根を残すとロクなことはない、頼朝が身を持って学んだ教訓でしょうか。正に、”走狗煮らる!”ですね。頼朝の死も、「吾妻鏡」には「落馬による死」となっていますが、どう考えても北条氏による毒殺か何かではないでしょうか。頼家の暗殺には正子の関与の証拠が残っているようです。北条家の大将の時政や政治感覚では時政以上の正子が、頼家の暗殺に関与していない訳はありません。しかし、頼家は正子の実子ですよね。そうです、本家の繁栄のためなら夫や実子すら抹殺してしまう、本当に怖い時代だったと思います。

公武合体

幕末、徳川政権が揺らぎ始めた際に、窮余の策として公武合体が画策されました。時の天皇である孝明天皇の実妹・和宮を、十四代将軍家茂に嫁がせることで、幕府と公家の力を合わせ難局を乗り切ろうとした動きでした。鎌倉時代にも、世継ぎのなかった三代将軍実朝の後継者を朝廷から迎え入れることで難局を乗り切ろうとする動きがありました。後鳥羽上皇は大いに乗り気でしたが、そんなことが実現してしまったら、北条氏が着々と政権の座を狙って来た苦労が水泡に帰す恐れがあります。これまた北条氏は頼家の実子の公暁に実朝を暗殺させました。実朝暗殺を知った後鳥羽上皇は、気持ちがいっぺんに冷めてしまい、鎌倉版公武合体は実現せず、とうとう源氏の血は絶えることになりました。幕末の動きははっきり公武合体という表現を使いますが、鎌倉時代の動きはどういう訳か公武合体の表現は使わないようですね。

 

その5 修禅寺物語


 劇作家・岡本綺堂1908年(明治41伊豆修善寺を訪れた際に、古刹修禅寺に伝わる一つの面(写真から着想を得て、戯曲「修禅寺物語」を執筆しました。作品が発表されると、演劇や歌舞伎の演目として大ヒットとなり、現在ではスタンダードの演目となっています。 

 

あらすじ 

 伊豆修善寺には、技量当代随一と謳われる面(おもて)つくり師・夜叉王(やしゃおう・写真がいた。夜叉王には、”桂(かつ”と”楓(かえで”という年頃の娘がいた。姉のは気位が高く、 

「こんな田舎に埋もれて終わるのは嫌だ…、やがては都にのぼり貴族の仲間入りをするのだ…」 

との空想に耽る日々を送っていた。そこに、鎌倉幕府第二代将軍・源頼家が現れ、程なく二人は恋仲になる。頼家は、夜叉王に自分の顔に似せた面を作るよう命じ、夜叉王は打ち始めるが、完成した面に納得が行かず壊してしまう。無心に面を打つのだが、出来上がった面にどういう訳死相が現れてしまう。打っては壊しを繰り返している間に、頼家は暗殺されてしまい、瀕死の重傷を負う夜叉王は、自分の打った面に死相が表れていたことの謎解きができたことに得心し、 

「伊豆の夜叉王、我ながらあっぱれじゃ…」 

と、自分の技量が神の領域に達したと思い満悦する。生き絶え絶えの娘を見るなり 

「やれ、娘。若き女子が断末魔の面、後の手本に写しておく、苦痛を堪えてしばらく待て…」 

夜叉王は鬼気迫る表情で模写始める 

 

 こんな感じでしょうか。芥川龍之介の「地獄変」と共通する芸術至上主義(芸術作品完成のためならいかなる犠牲も厭わない)テーマの作品ですね。ただし、「地獄変」の方が後の作品ですので、龍之介はある程度「修善寺物語」を参考にしたのではないかと私は考えています。夜叉王は模写した後に娘を助けたのかどうかは不明ですが、「地獄変」では絵師・良秀(よしひで)は「若い娘が燃え盛る牛車の中で死に絶える情景を写したい…」と、自分の娘を犠牲にします 

 地元の人は観光客からよく、「夜叉王の子孫はどこでどうしているのですか…?」、「桂の墓はどこですか…?」と尋ねられるそうです。フィクションですから夜叉王の子孫も桂のありません。しかし、ロンドンには”ベーカー街駅”なる地下鉄の駅があり、ベーカー街221Bなる番地もあるそうです。修善寺の観光課も、洒落でもなんでもいいですから、夜叉王の館でも墓でも作ってしまえばいいと思いますが…。そもそも歴史や神話は、現実とフィクションが入り混じり時間と共に醸成されて行くものでしょうから、早く作って歴史にしてしまえば良いでしょうに。その片鱗でしょうか、頼家の墓があり、頼家とが佇んだ地域を桂遊(けいゆう)地区と言い、傍には桂川流れ、それに架かる橋は桂橋(写真4)との名が残っています。 

 鎌倉幕府は成り立ちから滅亡まで、何か不吉なムードが流れていま。そもそも鎌倉殿の周囲に居た有力豪族の数が不吉な数である13人で、何か暗示的ですねまた、頼家の墓のすぐ隣に、「十三の墓(写真5)」なる史跡があり、十三の墓石が横一線に並んでいます。これは「鎌倉殿の13人」の墓と混同されますが、それとは違います。頼家が修善寺に流される際に連れて来た最側近の十三人で、頼家が暗殺され直後に一挙に捕らえられ惨殺されてしまいます。その数が偶然にも不吉な数の13人で不気味な符合ですやはり、祟られていたようですね。 

 修善寺は、そこに住んでいる時には気が付かないのですが、離れて見てみるとやはり魅力のある町であることが分かります。受験情報の会社の”Z会”の本部が修善寺にありました。修善寺のどこ誰がやっているのかわ分かりませんが、とても不思議に思いました。競輪選手の養成所があり、競輪のプロを目指す選手をはじめ競輪関係者があつまる一角があります。正式には競輪選手養成所と言うらしいのですが、地元では競輪学校と呼んでいます。また、会員制レジャー施設のラフォーレグループ全国に施設がありますが、ラフォーレ修善寺が最初の施設だそうです。勿論、龍之介・漱石などの文人墨客が静養に訪れ、いたるところに痕跡を残しています。