その1ドラマの舞台
その2 源氏湯と混浴文化
その3 北条家の野望
その4 鎌倉幕府開府論争と承久の変
「いいくに(1192)つくろう鎌倉幕府」、ひと昔前はこの頃が定番でしたが、近年、鎌倉幕府の成立年代に関して色んな見解が示されています。
1180年説…鎌倉に頼朝の邸が置かれ幕府の原形となる侍所が設置された
1183年説…頼朝が従五位の下に就き、平氏が東国で行った荘園や公領の横領を廃止し、元の国司や荘園領主に貴族させる権限を承認する、所謂東国統治権を付与した
1185年説…国ごとに主語を、荘園や公領に地頭を設置し、鎌倉統治が始まった
1190年説…頼朝が右近衛大正ににんぜられ、その居館が幕府と呼ばれるようになった
1192年説…頼朝が征夷大将軍に任ぜられる
歴史学者の方達は、それぞれの論を展開しているようです。全くの素人であるが故にフリーに物が言える身軽な立場で言わせていただくと、日本史上の中で国家的規模の大転換期として開府年代を特定するとすると、上記の年代はそれぞれ説得力があるとは思います。が、守護地頭の任命にしても、征夷大将軍の任命にしても、所詮は朝廷のお伺いを立て、朝廷が任命する形式を取っていますし、京より西半分は依然として朝廷の支配が続いていました。1221年の”承久の乱”を以ってして、鎌倉勢力の支配が全国に及び、朝廷の人事も北条氏の影響下に置かれる状況が生まれましたので、承久の乱こそ北条氏による国家規模の政権が成立した分岐点と捉えることが妥当と考えています。これには勿論、異論異説があると思います。
承久の乱
後鳥羽上皇は、新しく執権となった北条義時が朝廷の意思に従う人間かどうかを試すために、無理難題を押し付けますが、義時は拒否したことから、義時追討の宣旨(朝廷の正式な命令)が出されます。全国指名手配の身となった義時は動揺しますが、ここで千両役者の正子の登場です。「亡き頼朝様の恩は海よりも深く山よりも高い、その頼朝様が築いた鎌倉体制を壊そうとする上皇の命令など聞かず、鎌倉武士で一致団結して押し返そうぞ…」巧妙なレトリック(言葉による問題すり替え)ですね。後鳥羽上皇は”義時を討て”とは言いますが、”鎌倉体制を壊す”などとは言っていません。本当に正子は政治的駆け引きの天才ですね。
走狗煮らる
それにしても、後白河法皇、清盛、頼朝、後鳥羽上皇など、全く自己中心的にしか物を考えない人達ばかりですね。歴史の常ですが、平家打倒のために奔走した、木曽義仲・義経・範頼らは、頼朝に難癖をつけられすべて抹殺されてしまいます。禍根を残すとロクなことはない、頼朝が身を持って学んだ教訓でしょうか。正に、”走狗煮らる!”ですね。頼朝の死も、「吾妻鏡」には「落馬による死」となっていますが、どう考えても北条氏による毒殺か何かではないでしょうか。頼家の暗殺には正子の関与の証拠が残っているようです。北条家の大将の時政や政治感覚では時政以上の正子が、頼家の暗殺に関与していない訳はありません。しかし、頼家は正子の実子ですよね。そうです、本家の繁栄のためなら夫や実子すら抹殺してしまう、本当に怖い時代だったと思います。
公武合体
幕末、徳川政権が揺らぎ始めた際に、窮余の策として公武合体が画策されました。時の天皇である孝明天皇の実妹・和宮を、十四代将軍家茂に嫁がせることで、幕府と公家の力を合わせ難局を乗り切ろうとした動きでした。鎌倉時代にも、世継ぎのなかった三代将軍実朝の後継者を朝廷から迎え入れることで難局を乗り切ろうとする動きがありました。後鳥羽上皇は大いに乗り気でしたが、そんなことが実現してしまったら、北条氏が着々と政権の座を狙って来た苦労が水泡に帰す恐れがあります。これまた北条氏は頼家の実子の公暁に実朝を暗殺させました。実朝暗殺を知った後鳥羽上皇は、気持ちがいっぺんに冷めてしまい、鎌倉版公武合体は実現せず、とうとう源氏の血は絶えることになりました。幕末の動きははっきり公武合体という表現を使いますが、鎌倉時代の動きはどういう訳か公武合体の表現は使わないようですね。
その5 修禅寺物語
劇作家・岡本綺堂は、1908年(明治41年)伊豆修善寺を訪れた際に、古刹修禅寺に伝わる一つの面(写真2)から着想を得て、戯曲「修禅寺物語」を執筆しました。作品が発表されると、演劇や歌舞伎の演目として大ヒットとなり、現在ではスタンダードの演目となっています。
あらすじ
伊豆修善寺には、技量当代随一と謳われる面(おもて)つくり師・夜叉王(やしゃおう・写真3)がいた。夜叉王には、”桂(かつら)”と”楓(かえで)”という年頃の娘がいた。姉の桂は気位が高く、
「こんな田舎に埋もれて終わるのは嫌だ…、やがては都にのぼり貴族の仲間入りをするのだ…」
との空想に耽る日々を送っていた。そこに、鎌倉幕府第二代将軍・源頼家が現れ、程なく二人は恋仲になる。頼家は、夜叉王に自分の顔に似せた面を作るよう命じ、夜叉王は打ち始めるが、完成した面に納得が行かず壊してしまう。無心に面を打つのだが、出来上がった面にどういう訳か”死相”が現れてしまう。打っては壊しを繰り返している間に、頼家は暗殺されてしまい、桂も瀕死の重傷を負う。夜叉王は、自分の打った面に死相が表れていたことの謎解きができたことに得心し、
「伊豆の夜叉王、我ながらあっぱれじゃ…」
と、自分の技量が神の領域に達したと思い満悦する。生き絶え絶えの娘桂を見るなり、
「やれ、娘。若き女子が断末魔の面、後の手本に写しておく、苦痛を堪えてしばらく待て…」
夜叉王は鬼気迫る表情で模写を始める…
こんな感じでしょうか。芥川龍之介の「地獄変」と共通する芸術至上主義(芸術作品完成のためならいかなる犠牲も厭わない)がテーマの作品ですね。ただし、「地獄変」の方が後の作品ですので、龍之介はある程度「修善寺物語」を参考にしたのではないかと私は考えています。夜叉王は模写した後に娘桂を助けたのかどうかは不明ですが、「地獄変」では絵師・良秀(よしひで)は「若い娘が燃え盛る牛車の中で死に絶える情景を写したい…」と、自分の娘を犠牲にします。
地元の人は観光客からよく、「夜叉王の子孫はどこでどうしているのですか…?」、「桂の墓はどこですか…?」と尋ねられるそうです。フィクションですから夜叉王の子孫も桂の墓もありません。しかし、ロンドンには”ベーカー街駅”なる地下鉄の駅があり、”ベーカー街221Bなる番地もあるそうです。修善寺の観光課も、洒落でもなんでもいいですから、夜叉王の館でも墓でも作ってしまえばいいと思いますが…。そもそも歴史や神話は、現実とフィクションが入り混じり時間と共に醸成されて行くものでしょうから、早く作って歴史にしてしまえば良いでしょうに。その片鱗でしょうか、頼家の墓があり、頼家と桂が佇んだ地域を桂遊(けいゆう)地区と言い、傍には桂川が流れ、それに架かる橋は桂橋(写真4)との名が残っています。
鎌倉幕府は成り立ちから滅亡まで、何か不吉なムードが流れています。そもそも鎌倉殿の周囲に居た有力豪族の数が不吉な数である13人で、何か暗示的ですね。また、頼家の墓のすぐ隣に、「十三士の墓(写真5)」なる史跡があり、十三の墓石が横一線に並んでいます。これは「鎌倉殿の13人」の墓と混同されますが、それとは違います。頼家が修善寺に流される際に連れて来た最側近の十三人で、頼家が暗殺された直後に一挙に捕らえられ惨殺されてしまいます。その人数が偶然にも不吉な数の13人で不気味な符合です。やはり、祟られていたようですね。
修善寺は、そこに住んでいる時には気が付かないのですが、離れて見てみるとやはり魅力のある町であることが分かります。受験情報の会社の”Z会”の本部が修善寺にありました。修善寺のどこで誰がやっているのかわ分かりませんが、とても不思議に思いました。競輪選手の養成所があり、競輪のプロを目指す選手をはじめ、競輪関係者があつまる一角があります。正式には競輪選手養成所と言うらしいのですが、地元では”競輪学校”と呼んでいます。また、会員制レジャー施設のラフォーレグループは全国に施設がありますが、ラフォーレ修善寺が最初の施設だそうです。勿論、龍之介・漱石などの文人墨客が静養に訪れ、いたるところに痕跡を残しています。
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