伊良湖の風ー柳田國男と椰子の実ー


 

…東京に帰ってから、その頃、島崎藤村君が近所に住んでいたものだから、帰ってくるなり直ぐにその話をした。そしたら『君、その話を僕に呉れ給えよ、そして、誰にも云わずに呉れ給へ…』ということになった…「藤村の詩椰子の実(柳田國男著)」より

  

 当時まだ東大政治科2年生であった柳田國男は、明治31年(1898年)712日、伊良湖出身の友人であった宮川春汀(画家・装丁師)の奨めで、病後の静養も兼ねて伊良湖岬に旅をしました。地元の名士の紹介ということもあり、柳田國男は伊良湖村長小久保惣三郎の家の離れに約2か月間逗留することになりました。ある時は船で伊良湖水道に浮かぶ神島に渡ったり、渥美半島の高嶺大山に上ったり、また折々には岬の岩かげに佇みハイネの詩を吟じて過ごしたようです。東京で宮川春汀の談話により旅情をそそられた友人である太田玉茗が814日に、また田山花袋が828日に伊良湖の柳田國男を訪ね幾日か同宿しました。柳田國男は後に残り、その後の伊良湖での体験を花袋に手紙で知らせています。

 

…ことに可笑しかりしは、大いなる椰子の実の二つに破れたるを拾い上げて、幾度もその破目を継ぎ合わせ見て、こはかの小笠原か、さらずば南洋諸島より漂着したるものならめと思い候へば、はるばると流れ来しものかなという悠久なる感起こりて、南洋諸島の熱帯地方の珍しき樹木の繁りたるさまなど、それとなく思い出され申候…

 

8月末に田山花袋が伊良湖を去り、柳田國男も東京に帰る9月中旬までの手紙であるので、椰子の実が流れて来たのはちょうど今の時期の9月上旬ということになります。そして、帰京後の友人たちとの思い出話の場となります。“椰子の実”は島崎藤村でしょ!と思われた方も多いと思いますが、島崎藤村は一度も伊良湖を訪れることはなく、友人の柳田國男より旅の話と聞いた瞬間にインスピレイションが湧いたようです。伊良湖岬の潮鳴りと共に語られた椰子の実は、藤村によって見事な抒情詩となり、明治34年(1901年)藤村詩集に収められました。そして、昭和1111月、山田耕作門下の大中寅二により曲がつくられました。

 

名も知らぬ 遠き島より  流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて    汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

 

(もと)の木は 生いや茂れる  枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚(なぎさ)を枕   孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

 

実をとりて 胸にあつれば  新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

 海の日の 沈むを見れば   激(たぎ)り落つ 異郷の涙

 

思いやる 八重の汐々(しおじお)  いずれの日にか 国に帰らん

 

「それが一体何だと言うんだ?」で済ませてしまえばそれまでですが、椰子の実一つから人生の流転や栄達と落剝までを読み上げてしまうのですから、やはり詩人と言われる方は想像力が豊かで詩情溢れる感性の持ち主ですね。

  ところで、柳田國男は東大を卒業し高級官僚としての職を全うする傍ら、民俗学を興します。特に、旅行道と呼ばれる独特の旅行スタイルを作り上げます。柳田にとって旅行は決して娯楽ではなく、日本人とは何かを考える研究の機会でした。研究室で書類から集める情報ではなく、現地を歩くことで拾える民間伝承から、日本人論を展開して行きます。その出発地点は、やはりこの伊良湖逗留であったはずです。つまり、日本民俗学の出発地点と言っても過言ではないと思います。

   椰子の実の石碑

   伊良湖岬

柳田國男に伊良湖旅行を進めた宮川春汀は、多くの風俗画を残し、明治時代の様子を知る上で貴重な資料となっています

  宮川春汀の風俗画

   宮川春汀の風俗画


試しに職場で、伊良湖(いらご)という地名を言ってみましたが、日本地図のどのあたりにあるのかを知る方はほとんどおりませんでした。十分に承知している方も多いかと思いますが、一応場所を確認しておきましょう。愛知県の三河湾に、カニのハサミのように突き出た2つの半島がありますね。東京に近い側の半島が渥美半島(田原市)で、大阪よりの半島が知多半島(常滑市・武豊町など)です。渥美半島の最先端にあるのが伊良湖町です。愛知県の中心部から距離があるからでしょうか、訪れる人は多くはないようです。が、どこまでも続く砂浜と無限に広がる畑は、この地に縁もゆかりもない私でもどこか懐かしい思いが湧いてきます。

さて、田原市と言えば旧田原藩、田原藩と言えばどうしても触れずに過ごすことができない有名人がいますね。そうです、渡辺崋山です。有能な学者にして有能な役人で、これだけでも十分に歴史に残る人物ですが、超がつくくらい有名・有能な画家です。生前にすでに偽物が大量に出回っていたと言いますし、裕福な家で絵をコレクションする場合、雪舟と渡辺崋山を持っていたら一目置かれるというのが通り相場だったようです。しかし、蛮社の獄で罪を得てしまい、自宅で自害することになってしまいました。渡辺崋山については時間もスペースも必要ですので、別の機会にすることにします。最後までありがとうございました。