シリーズ アンティーク・雑貨

アンティーク雑貨1 七宝・七宝繋ぎ


 自分でも、自宅のどこにどれだけのアンティーク・雑貨がストックされているのか、全貌を掴んでいないのですが、時間を見つけて少しづつ整理したいと思ってこのシリーズを始めました。第一回目は七宝焼と七宝繋ぎ模様です。
 七宝焼は、文字通り七つの貴重な鉱物を調合し、高温の環境下に置くことで何とも魅惑的な光を放つ装飾品となったものの総称です。七つの宝のように貴重な鉱物とは、

金、銀、瑠璃(ラピスラズリ)、玻璃(水晶)、 しゃこ(貝)、珊瑚、瑪瑙

出所は仏経典で、この七種類は時代や地域によって変わるようです。また、七という数字は厳密な数を表しているのではなく、“とても貴重な”という意味を込めて冠しているようです。従って、場合によっては六種類であったり、九種・十種ということもあるようです。それらを総称的に“七宝焼”と呼んでいます。因みに、英語ではエナメル(enamel)、フランス語ではエマイユ(email)と呼ばれています。
 今年がネズミ年ということもあり、ネズミの図柄の七宝焼きを引っ張り出してみました。装飾店で七宝焼と言えば、“安藤七宝”が有名ですね。この2つにも安藤七宝の銘がありました。特に、ネズミが宝の入った袋に何かしようとしている、大きいほうの七宝焼ですが、中から宝物がザクザクと出てくるようで、今年は良いことがありそうなことを予感させてくれます。皆様にも多くの幸運が訪れることを願っております。ネズミもこのような図柄の中で登場すると、何とも可愛げのある動物に見えるものですね。


さて、生活の中の七宝と言えば、“七宝繋ぎ”という模様があります。昔から目出度い図柄として、高級磁器や和服の模様として使われてきました。赤い大正時代の丸帯には、丸型七宝繋ぎ紋と菱型七宝繋ぎが同じ列に織り込まれてあるような高級帯もあります。この模様は、描かれているのではなく、金糸で織り込まれてあります。また、黒漆喰に七宝繋ぎ模様のなまこ壁もあります。このように、身の回りの特に意識しないところに七宝繋ぎ模様は使われています。

アンティーク雑貨その2 柱時計・掛け時計


 どんな機械も電気仕掛けになっている昨今で、ガスストーブやコンロまでも停電してしまうと使えなくなってしまいます。そんな中で、週に1度くらいのペースでネジを巻きさえすれば、50年100年という単位で何の燃料も無しに働き続ける柱時計は、現代人に何かを語りかけているような存在だと感じることがあります。
 決してコレクターではありませんが、静かに、そして健気に働き続けている柱時計に出会うと、捨てておけない気分になってしまいます。電気音のピポピポという音ではなく、何とも自然なボワ~ンボワ~ンという音で時を知らせてくれるゼンマイ式の時計は、何としても後世に残したいアイテムの一つだと感じています。柱時計は英語でgrandfather's clockですがお爺ちゃんが大事にしていたような貫禄というか風格を感じます!
 最初の大きな柱時計は、青森から来た方が持っていました。ボディーは総欅(けやき)で、何とも質朴でありながら静かな中に豊かさを感じさせる存在です。ボディーの裏には「十和田ホテル」と墨で書かれてありました。ホテルの改装か何かの際に外に出たのでしょう。お願いして譲っていただきました。まるで青森県人のように、正直に、そして律儀に約束を守ってくれる大好きな存在です!

2番目の黒塗りの時計ですが、裏面には「明治大学」の、これまた墨塗りで大きな文字があります。どこの校舎かは知る由もありませんが、あの明治大学で永年使われていたものに違いないでしょう。正面のガラス部分が少し殺風景だったので、ステンドグラスを入れ、中から光が灯るような仕掛けを施しました。表面は少し変化しましたが、基本の仕事は実直に守り続けています。

3番目の掛け時計は、ドイツ製のようで、装飾の面白さで私のところへ来てもらうことになりました。少し装飾過多のところはありますが、真面目に働く部分の芯は外していませんから、偉いと思います。4番目はSEIKOSYAの文字があります。今の服部セイコーの前身の会社ですよね。この模様の掛け時計は愛好家の間ではゼブラの名で親しまれているようです。鎌倉の極楽寺を訪れた際に、すぐ近くの喫茶店にフラッと寄ってみました。入ってから分かったのですが、そこは骨董喫茶になっていて、ついこの掛け時計を衝動買いしてしまいました。
アンティークの類は不思議ですよね、幾人かの持ち主を変えながら、変わって行く人間を静かに見つめています。人間よりはずっと長くこの世に存在し続けているものの、存在を主張することも抵抗することもなく人間の我が儘に従う、まるで木々や野の草花のように。本当に愛しい存在です。

アンティーク雑貨 その3 看板(薬屋編)

ひと昔前の看板には、手作り感が感じられ、何とも味わいがあり大好きなものの一つです。特に、薬の看板にユニークなものがあったと思います。現代でも市販薬のネーミングには少し洒落を利かせてあるものが多く見られますね。“正露丸(日露戦争の勝利を下支えした)”、“ジキニン(じきに治る)”、“ストナ(スーッと治る)”、“ケロリン(ケロッと治る)”、“キャベ2(キャベツの薬事効果を強調)“、”パブロン(パブロフの犬を連想させる?)“、”ルル(lull・『鎮める和らげる』との英語)“、”エスタック(エスエス製薬が風邪にアタックする)“、etc. 
 さて、気が付いたら家の壁には結構な数の看板がかかっています。
最初の写真ですが、頭痛薬を宣伝する看板のようで、名前が“スードル”だそうです。“頭の痛みをスーッと取る”ということですね。こんなかわいい看板に出くわした時には後先のことは考えず、即購入となりました。


2枚目は、ワインの看板ですが、明治時代は今の養命酒のように、滋養強壮効果のある医療健康のジャンルに入る商品でした。ポートワインはポルトガル北部ポルト港から出荷されるワインの総称ですが、初鳥(初取)ポートワンは今の○○ヌーボーと言われるような初荷のワインではなかったでしょうか。取の字ではなく、鳥の字をあて、八咫烏の絵が描かれたのだと思います。
3枚目の写真は、伊勢州三重郡との文字が確認できますので、幕末から明治初期の、現在の三重県内の薬屋さんの看板だと思います。絵が入っているともっと楽しかったでしょうが、絵がないことで帰って重みがあるようにも感じます。
4枚目の達磨さんの看板ですが、この看板をベースに色んな宣伝を中央に刻んで看板にしました。これは出来上がる前の、元のものです。ここから、薬屋さんの看板になったり、たばこ屋さんの看板になったりしたものを見たことがあります。
最後の写真の看板ですが、「木村屋」との屋号が右から左に書かれています。漢方を扱っていたお店だと言うことで購入しましたが、それを示すものは看板からは確認できません。

3看板(薬屋以外編)


「こんな物を持ってきてどうするのか?」しかし、私はこれらの用がなくなった看板を見ると、捨て猫に出くわしてしまったような、捨てておけない愛おしさを感じてしまうものですので…
 最初の写真は、「孝行糖」の看板です。「孝行糖」は、落語の演目の一つで、数ある演目の中でも最も馬鹿馬鹿しい落ちだと言われている演目です。その落語の演目に肖ってどこかの誰かが「孝行糖」という名前の飴を売り出したようです。江戸時代に実際にあった看板ですが、これは復刻版かもしれません。2枚目の看板は、自作の看板です。
3枚目の大という文字と小という文字が裏表に書いてある看板は、“大小暦(だいしょうごよみ)”と言って、商家にはなくてはならないものでした。看板というより、暦の部類でしょうか。現在のように、ある月の日数が固定する前は、その月によってその月の日数が毎月違っていました。多くの雇人を抱えている商家では、「今月は大の月だから31日間仕事があるとか、今月は小の月だから30日で終わりである」とか、そこの部分の情報を雇人に対して明確に示す必要があり、このような看板というか暦というか、とにかく出入り口の一番目立つところに掲げておいたそうです。



不二家や松本ホテルの中のレストランの看板なども改装か何かで出て来たものです。
商品がすぐに判るような可愛い看板もあります。小さな立て看板などはまだ納戸の奥にひっそりと眠っているようなものもあるかと思いますが、出し切れませんでした。


アンティーク雑貨4 唐草模様


日本人には何とも馴染みのある唐草文様は、葉や茎、または蔓植物が伸びる様子を図案化した文様の総称で、古代ギリシャの神殿装飾や、イスラム世界の食器や建築装飾などに用いられていました。シルクロードを経由して奈良時代に日本に伝わったようです。それが日本に伝わると、“草文様”では何とも味気がない呼び方なので、“舶来の”という意味の“唐”の字を頭に当てました。唐草という植物はありませんが、“唐草文様”と呼ぶことで、何とも座りが良く音韻的にもリズムのあるネーミングとなりました。また、最先端の意匠であるイメージはそのまま残り、音の響きがオリエンタリズムにマッチすることで時代を超え好まれる意匠となり、現代人にも馴染みが深い文様の一つとしての地位は不動のものになっています。
英語ではArabesque(アラビア風の、奇妙な模様の)と言いますが、来日当時は最先端の異国文化として捉えられていました。しかし、日本人は直ぐにアラビア風であった模様を、その味は残しつつ日本風にアレンジして行きました。特に、草や蔓の模様だけだったものに、花を描き入れることで全体をより華やかなデザインに創りあげた日本人の美意識は高かったと言えるでしょう。桐、藤、松竹梅など身近な植物を取り入れ「〇〇唐草」と呼び、日本独自の様式を発展させ、あらゆるものの文様に使われようになりました。また、見た目の美しさだけでなく、どこまでも伸びてゆく蔓草を生命力の象徴と捉え、一族の繁栄や長寿を意味する吉祥文様とも解釈されています。勿論、日本だけにとどまらず、ウイリアム・モリス(2枚目の写真)やクリムトなど、デザイン装飾を行う際には必ず意識をするスタンダードの文様となっています。


ある一定の年齢以上の方は、唐草文様で東京ボン太を連想されたことでしょう。1枚目の写真のように、風呂敷の柄と言ったら緑地に唐草文様と相場が決まっていました。昭和初期から戦前戦後にかけて大流行した柄です。これを超える文様はなかなか無いですね。昭和より一時代前の筒描きの風呂敷では、デフォルメされた草の模様がダイナミックに描かれています。その他に、手あぶり、帯の模様、スイッチカバーなど、あらゆるものの装飾に唐草模様は使われており、今後もその存在が薄れることはないでしょう。

4唐草模様(古伊万里編)

身近な唐草模様と言えば、古伊万里に描かれた唐草模様がお馴染みですね。伊万里焼(有田焼)が17世紀初期の始まりなので、唐草模様の長い歴史からすれば伊万里焼の歴史は浅く、比較的新しい焼き物です。その伊万里焼のごく初期から唐草模様は現れています。最初は副次的な模様でしたが、徐々に、唐草模様自体がもつ魅力が評価されメインの模様となって行きます。
 伊万里焼の唐草模様は、蔓に突起状の葉を加えた模様に発展して行きます。その模様が蛸の足のように見えることから、近代になって“蛸唐草”と呼ばれるようになりました。“蛸唐草”との模様や呼び方は伊万里焼以外では使われないようです。蛸唐草模様はシンプルな連続模様ですが、描くには高度な技術が必要です。試しに皆さんも紙に蛸唐草模様を描いてみて下さい。一定の枠に矛盾なく蛸唐草を描くことは簡単ではありません。
 蛸唐草とは別の進化を遂げた唐草模様があります。古伊万里染付(そめつけ:ブルー一色の下絵のみの焼きもの)の女王様とでも呼ぶべき模様である、“花唐草模様”(1/2枚目の写真)です。古伊万里の模様では最も人気が高く、黒柳徹子が使っている食器がすべて花唐草だと言われるくらい、有名人にもファンがたくさんいます。ブルー一色ですが、何とも可憐で見飽きることのない模様です。この花唐草模様は蛸唐草模様以上に描くのに時間もかかり、より高い技術が必要です。


時が下るにつれ、蛸唐草や花唐草の描き方が簡略化されて行きます。それが5枚目の写真の微塵(みじん)唐草模様です。江戸時代の18世紀末あたりまでは社会が安定し、器の絵付けにもじっくり時間をかけることができたのでしょうが、19世紀に入り幕末の動乱期を迎えると食器に丁寧な絵付けをしている余裕がなくなってしまったようです。
 伊万里焼に描かれた唐草模様を見ると判るように、時間と共に蓄積され進歩して行く科学の分野と異なり、美に対する技術や意識は一定の進歩はするものの時間と共に衰退してしまう運命にあるのかも知れません。大正時代や昭和初期は、平成や令和に比べ国全体がとても貧しかったと思いますが、市中の風景写真を見ると、男性も女性も今よりはお洒落をしているように見えます。建築技術や重機も格段に進歩しているはずの現代でも、1400年も前に建てられた法隆寺の柱一本すら同レベルのものを作ることが難しい様です。科学の蓄積を持っているはずの現代人ですが、ストラディヴァリや窯変天目茶碗などを作れないのと同じですね。古伊万里染付の模様から、江戸時代の名も無き絵付師の技術の高さと美意識に改めて感心してしまいます。


アンティーク雑貨5 不二家のタイル クレバー・ウルフ


1970年(昭和45年)、不二家新宿駅ビル店をオープンすることとなりました。オープンにあたり何か特徴を出そうと、フロアに敷くタイルを特注することになり、米国人工業デザイナーのクレバー・ウルフに依頼しました。クレバー・ウルフは、不二家のイメージをよく理解し、そのショップイメージにマッチする何とも素晴らしいポップ調の三角タイルを完成させました。このタイルは新宿駅ビル店以外の店では使われず、その駅ビル店も1990年代末に閉店になったそうなので、現在このタイルを使っている店はなく、店の写真も残っていないそうです(不二家お客様窓口より)。 (どなたか写真を持っていないでしょうか?)
帝国ホテル(愛知県犬山市の明治村に保存)の外壁用の黄色いレンガを製作するドラマが、NHKでつい先日放送されていました(これもしびれる話でした)が、特注のタイルも後から追加で作ろうと思っても同じ色は出せないようなので、注文をする際は最初に多めに作っておくようです。不二家新宿駅ビル店のフロアに敷かれたタイルも数箱余り、倉庫に眠っていました。それを譲っていただいたものです。色は明るいポップ調の色ですが、表面がテカテカと光るタイルではなく、レトロ調に渋みを放つタイルです。不二家の明るいイメージと長い歴史を表現するのにピッタリな色で、作ったデザイナーのセンスの良さを感じます。現在、クレバー・ウルフの名前は、バイクのパーツの会社になっているようです。入手した不二家の三角タイルは、私のところの台所のトップが白だったので、このタイルを敷き、台所に変化をつけてみました。


不二家に対しては、楽しく明るいイメージを持つ方が多いのではないでしょうか。ミルキーをはじめ、フランスキャラメル・ハートチョコ・パラソルチョコ・ルックチョコレートなど、戦後復興を目指す豊かさのシンボルだったような気がします。改めて調べてみると洋菓子店としたら、いろんなことにチャレンジしている会社だということが分かります。
1910年(明治43年)、日本初のクリスマスケーキを販売
1922年(大正11年)、日本初のショートケーキを販売
1950年(昭和25年)、ペコちゃんを翌年にポコちゃんをキャラクターとする
1998年(平成10年)ペコちゃんポコちゃん人形、特許庁から立体商標第一号として認可
また、“札幌すすき野のニッカウヰスキー”、“大阪道頓堀のグリコ”と並び、“銀座数寄屋橋の不二家”は三大イルミネイションとなっています。

アンティーク雑貨 6石仏


石仏…素材が石の仏像は、臼杵磨崖仏(大分)・当尾磨崖仏(京都)や、はたまた雲崗石窟・龍門石窟(中国)などの巨大な岩盤に掘られた磨崖仏のような大規模なものもありますが、普段我々が目にするものとしては、寺社の境内や路傍などに見られる「野仏」のような小さな仏さんですね。
六地蔵(りくじぞう)と六道輪廻…「野仏」と言えばやはり地蔵さんを思い浮かべます。単体の地蔵さんの他に六地蔵(写真1)も多く作られたようです。普通の人間は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の間をさ迷いながらもがき苦しむことになるので(六道輪廻)、それぞれの世界で苦しむ民衆に六地蔵が救いの手を差し伸べるとされているようです。昔話の「傘地蔵」に出て来る地蔵さんは何体だろうかと、ふと疑問に思いネット検索すると、同じ疑問を抱き調べた方がいました。また、その疑問に応え多くの方が返事を出したようです。最少で一体、最多で十二体までの返答がありましたが、やはり六体という返答が多かったようです。昔話は仏教説話の要素もあったでしょうから、因果律を説く話として「傘地蔵」の地蔵さんは六体がいいのではないかと思います。


その他の石仏・・・写真4の如意輪観音は比較的珍しいのではないでしょうか。この仏さんは多臂であり、直立のようなシンプルなポーズではなく、体をくねらせているので、石に刻むのが難しいこともあると思います。小さなものは部屋の中に置いておくと、ふとした時に気が休まるものです。欲望丸出しの写真や映像を見るよりは、素朴な石仏を見ることで多少は優しい気持ちが呼び起こされるような気がしています。ところで、どこからこの種の石仏が出て来るのか、疑問に思う方もいらっしゃるのではないでしょうか。過疎の山林などは山単位で売買がされるようで、山を買った人がその山に入ってみると、廃寺や道の片隅などに放置されている石仏が見つかるそうです。それらを市場に流通させることで、一般の人間も手元に置いて楽しむことができるようです。また、仏教関連の道具類はだいたいのものは美術品として古美術店で入手できます。仏像や仏画は勿論、馨(けい)や華鬘(けまん)から仏舎利や曼荼羅まで、だいたいのものは古美術店で(それが良いかどうかは別にして)探すことはできます。

アンティーク雑貨 7 琺瑯のヤカン・食器


琺瑯の食器を見ると、つい手元に置いて使ってみたくなります。ざっと出してみましたが、食器棚の奥にはまだあると思います。宝探しのつもりで、探してみます。


アンティーク雑貨 8 狛犬・木鼻

  日本語の名前や地名は音が元にあり、その音に漢字を適当に当てたものであると言われています。そして、「コマ・クマ・コーマ・コウライ」の音はすべて高麗(広義の朝鮮半島やその王朝)がルーツであるようです(「日本の中の朝鮮文化(金達寿著)」より)。今でも高麗の漢字をそのまま使っている地名や人のお名前も多く見られます。東京の狛江のルーツはある程度はっきりしていて、百済国王が高麗人を帰化させた地とされています。

 世界観がまだ狭く、全世界が日本とそれ以外の外国という捉え方をしていた時代に、外国と言えば唐か高麗しか念頭になかった名残として、中国や朝鮮半島の焼き物を総称して唐物・高麗物と表現したり、舶来の高級織物を唐織・高麗錦などと呼ぶ習慣も残っています。オタネニンジンと言うより高麗人参と言う方が一般的ですね。

 さて、狛犬ですが、広義では日本犬とは違った「外国犬」くらいの意味でしょうか。仏教伝来と同時に、仏像に眷属する獅子が来日しました。それを獅子だと認識できず、犬と捉え高麗犬⇒狛犬となったようです。狛犬は左右一対になっていますが、片方が口を開けていてもう片方が口を閉じている、つまり阿形(ものの始まり)と吽形(ものの終わりを表現)です。この、阿形と吽形の狛犬は日本の狛犬に多く見られる特徴のようです。現代は、神社仏閣の入口に置かれ、来訪者を出迎える役割を担っています。

  写真1の狛犬ですが、大分県日田市の豆田を訪れた際に、ある骨董店で出会った狛犬で、苦労して東京まで連れて来ました。店主曰く、国東半島の古寺から出たとのことです。素材が石のものの年代を予測するのは簡単ではありませんが、仏像や狛犬にも時代の特徴があります。江戸時代以降の仏像や狛犬は現代風になっていて風格が感じられません。室町や鎌倉でもこの狛犬のような風貌を石に刻むことはなく、平安かそれ以前ではないかと踏んでいます。私のところの玄関に置いてあります。写真2は現代のものの狛犬です。

  写真3は、社寺の入口に置かれる狛犬ではありませんが、同じカテゴリーに属するものです。神社仏閣を守るため、軒柱に動物飾りが施されていて、木鼻(きばな)と呼ばれています。獅子・象・龍・獏などを元に、職人がイメージを膨らませ架空の動物として制作されたもので、室町以前はあると思います。写真4の小さめの木鼻は江戸くらいでしょうか。

  写真5は、自宅にあるものではなく、調布市深大寺のすぐそばの青渭神社(あおいじんじゃ)の狛犬です。何とも愛らしくほのぼのとした作りで、大好きな狛犬の一対で定期的に会いに行きたくなります。お近くの方は是非会いに行ってみて下さい!


9 スイッチカバー


普段何気なく目にし、接している灯りスイッチのカバーです❗1Fは、四季の花をイメージしてデザインしました。🌺🌻🍁🌾🌼🌸🌿もう取り付けてから30年近くなります😃‼️