近江古社寺巡礼

① 油日(あぶらひ)神社と櫟野寺(らくやじ)


かくれ里・・・白洲正子は、白洲次郎のパートナーであり、女性として初めて能舞台に立つなど、何かと話題が豊富な随筆家です。町田の古民家で骨董収集に没頭する傍ら、かくれ里の取材に各地を駆け回り、かくれ里ブームを起こす。昭和30年代後半から40年代、東京オリンピックや新幹線を始めとした高度経済成長に浮かれる世情をよそ眼に、ともすると忘れ去られてしまいそうな日本の貴重な遺産とも言うべき各地の古社寺を取材し、多くの支持を得る。かくれ里と言うくらいで、メジャーな観光地ではないが、京都や奈良などのメジャーな観光地が失いかけている素朴で純粋な信仰に支えられ受け継がれて来た集落の文化財に触れる機会を得ることができました。
油日神社・・・どのくらいの方が滋賀県甲賀市の位置をイメージできるでしょうか。もう30年以上も前でしょうか、油日神社を白洲正子の「かくれ里」で初めて知った時、名前の響きに妙に惹かれたのを記憶していますが、京都・奈良・彦根・伊勢・名古屋などの主要な地域から近距離にあるにも関わらず、心理的には...とても遠くに感じるなかなか行くことがないエアポケットのような地域でした。雨のせいか、境内には誰一人見当たらず、宝物館らしき建物もしっかり鍵がかかっていたので、諦めて帰ろうとしたのですが、念のため社務所をやっとのことで見つけ、油日地区に入って初めて人に会うことができました。神主さんでしょうか、「宝物館を見せていただくことはできますか…?」と遠慮しながら尋ねると、「見たいのですか?少し時間がかかりますけど大丈夫ですか…?」と、『この雨の中奇特な人もいるものだ』とでも言いたげな返答でした。何に時間がかかるのか分かりませんでしたが、7~8分ほどで宝物館のカギを持って我々を案内してくれました。入館料は200円で、中には福太夫の能面を始めとした興味を惹かれる宝物が展示されていました。「油日とは、神の名前であり、山の名前でもあり、その神を祭った神社が油日神社で、地域の名前にもなった…」、雨の中を案内してくれた神主さんらしき方から色んなお話を聞くことができました。

櫟野寺


2016年9月13日~12月11日まで、東京国立博物館の特別展で「平安の秘仏―滋賀櫟野寺の大観音とみほとけたち」が開催され、そこで初めて櫟野寺を知った方が多いようです。予想に反し大好評だったため、期間を予定より1か月延長するという、殆ど例のない異例の対処をしたようです。櫟野寺を“らくやじ”とむことができる方も、その場所を知っている方も少ないでしょう(勿論私は知りませんでした)が、この櫟野寺には仏像通がびっくりするような見事な十一面観音が今に伝わっています。この平安仏は秘仏で、33年に1度の開帳で何百年も過ごしてきたのですが、平成も後半になってやっと年に2回の開帳をするようになったようです。白洲正子も最初に訪れた際は、大きな厨子の観音開きが開くことはなく拝むことはできなかったようです。座像の十一面観音では日本一の大きさだそうですが、そのお顔やお姿の美しさに圧倒されてしまいました。次のような話が伝わっています。ある夜、住職は本尊である十一面観音の夢を見ます。「…今居る本堂も古く、いつ災難が起こるかも知れないので安全な場所に移して欲しい…」と。それからというもの、同じ夢を何度となく見ることになり、ある時その地域の村人に夢の話をすると、「私も同じ夢を見た…」という村人が何人も現れ、これはただ事ではないと感じた。確かに、本尊を始めとした二十数体の平安時代から伝わる仏様たちがおられる本堂も老朽化し、管理もおろそかになりがちであるので、思い切って空調設備を完備した宝物館を建て、そこで丁寧に管理することになった。昭和41年、やっとのことで宝物館が完成し、仏様たちも新しい場所に収めることができた。昭和43年正月六日、出初式で地域の人間が小学校に集まっていると、櫟野寺の本堂が漏電により火災が発生した。知らせを聞いた消防団が櫟野寺に駆けつけた時には火の勢いが強く手の施し様もなく、本堂は全焼してしまった。その瞬間、住職は得心した。「これだったのか‼️」あの夢のお告げがなければ、平安時代より幾星霜に耐え伝えられた二十数体の仏様は本堂もろとも灰燼に帰すことになり、寺も仏も消滅してしまうことになる。それを思うと身震いがし、十一面観音の霊力に改めて平伏した。そんな話と共に見る仏様は、格別の表情で歓迎して下さっているようでした。油日神社と櫟野寺は直線距離にして700Mほどですので、訪ねる際は二か所を回るといいと思いますが、どうせ訪ねるのでしたら開帳の日にちを確認した上でお訪ねになることをお薦めします。

② 十一面観音巡礼


  近江の古寺を巡る旅は、秀麗な十一面観音を巡る旅でもあります。比叡山の麓ということで、天台密教の影響が色濃く残り、特に、湖東・湖北に優れた仏様が伝わっています。そして、どこの仏様も、地元の方達の信仰の対象で、地元の方達によって今でも守られている仏様ばかりです。この地域は、信長の焼き討ちの影響で多くの文化財が災難に遭いましたが、村人たちがある時は山に逃がし、ある時は地中に埋めるなどして、必死で文化財を守り抜きました。そんな村人たちの無償の努力があって我々現代人が目にすることができることを思うと、感謝しきりです。

 向源寺(渡岸寺)十一面観音(最初の写真)…仏様に優劣や順位をつけたりするのは不遜だと承知しております。十一面観音だけでなくすべての仏様に枠を広げたとしても、人気投票をしたとしたら、確実に上位に入る仏様ですね。七体ある国宝の十一面観音像の中でも白眉であることに異論はないでしょう。少し前までは、地域の人たちしか出入りすることがないお堂にポツンと置かれていて、外部の人間が見に来るような対象ではなかったようです。アビニオンのピエタのような超一級の絵画が、寒村の教会でつい最近発見されましたが、それに匹敵する事例ではないでしょうか。8世紀、泰澄作ということになっているようですが、恐らくそれは後付けでしょう。天平期の無名仏師の作にしては、何とも洗練されたフォルムで、直立の立像が主流の中で、コントラポスト(腰の微妙な傾き)まで施してあるこの仏様は、見る人を魅了して止まない不思議な力を備えていて、何度見ても飽きることはありません。前回訪れた時は、本堂を通ることなく直接収蔵庫に入る形式だったのですが、収蔵庫の出入口を頻繁に開けると湿気が入ってしまうようで、現在は本堂に一旦入り、本堂から収蔵庫につながる通路を通る形になっていました。因みに、拝観料が300から500円になっていました。国立博物館の特別展でも企画されたら、1800円でも人の列が絶えない騒動になることでしょう。

鶏足寺(けいそくじ)から石道寺(しゃくどうじ)へ


湖北の木之本町近辺には、それこそ無数の寺社があったようですが、僧侶不足や台風などでお堂が流されてしまうなどの事情から、この地区の仏様を鶏足寺に集め保存しているようです。3枚目の写真の十一面観音は、鶏足寺がずっと山の上にあった頃から少しづつ降りてきて、現在の場所に祀られています。その周りには何体もの仏様がいらっしゃいますが、一際威厳のあるお姿で訪問する人を魅了しています。鶏足寺から山道を500Mほど歩くと石道寺があり、その道は湖北で随一の紅葉の名所です(写真4枚目)。11月の中旬が見頃でしょうか。5枚目の十一面観音は石道寺の本尊で、ここも石道寺地区の住人だけがお参りする地域の小さなお堂でした。しかし、その仏様があまりに美しいために、どうしても見せて頂きたいという問い合わせが増え、一般公開するようになったようです。10数年前に、最初に訪れた時は事前予約が必要でしたが、現在は予約の必要はないようです。石道寺地区の住民が当番制でお堂のお世話をしているので、一世帯に年間20日前後の順番が回ってくるようです。退職された方でお堂のお世話ができる世帯はいいのですが、仕事も家族もある若い世帯は当番が回ってくると有給休暇を取るそうで、年間の有給休暇のほとんどをこれに費やす世帯も多く、予約無しで来客をお迎えできるような体制はもう限界だそうです。恐らく、少しづつ見学できる日にちが絞られて行き、やがては一般公開がストップしてしまうかも知れません。京都と奈良の境にある浄瑠璃寺も、地域の方が当番で見学者の番をしていますが、そのような地域はかつての住民の連帯というか絆というか、とにかく昔ながらの温かみがまだ残っていて、何かホッとした気分にさせてくれるものです。ここ石道寺は依然として300円の拝観料で、お堂の維持費の足しにもならないでしょうし、当番の方は勿論無給だそうです。ここの仏様は、あと何年元気でここにおられることができるかを思うと、少し憂鬱になります。この地区の住民の傍に居てこその仏さまでしょうから、京都国立博物館でガラスケース越しに見るようになってしまったら、良さが半減してしまうでしょう。

③ 湖東三山     西明寺・金剛輪寺・百済寺


 

 湖東三山(ことうさんざん)という響きほど、しっくり納まる観光向けキャッチコピーもそうそうないでしょう。初めて聞いた瞬間、「一体どんなところだろうか…?」との想像を巡らせずにはいられません。琵琶湖側から、西明寺(さいみょうじ)、金剛輪寺(こんごうりんじ)、百済寺(ひゃくさいじ)の三寺がごく近距離に並んでます(車で移動すればですが)。室町時代には、敏満寺・大覚寺を含め、湖東五山として伊勢にも匹敵する観光地であったそうですが、信長の焼き討ちなどでこの二寺は衰退し三山になったようです。寺はそもそも“お山”と言われていますが、三山のどのお寺も、山門(寺の入口)から3050分程度の石段を登らないと本堂にたどり着くことができませんので、ミニ登山の要素もあります。そのミニ登山も楽しい要素の一つですが、健康上の理由でそこまで行くことができない方もいらっしゃるので、現在は本堂のごく近くまで車で上がれるようになっています。最初の訪問ではすべて下から上がりましたが、今回は上まで車で行くことにさせて頂きました。


西明寺と金剛輪寺は、焼き討ちの影響が比較的少なかったようで、仏さまもかなり残っていますが、百済寺は最大規模であったためか、その影響を最も強く受けてしまい、多くの僧坊や仏さまが消失してしまったようです。そのせいか三寺を見比べると、やや百済寺が見劣りしてしまうでしょうか。それらを差し引いても、やはりこの三山は一度は訪れるだけの魅力を十分に持っている場所だと思います。五木寛之が百寺巡礼で百済寺を紹介しています。

 

『お寺の創建は1400年前。飛鳥時代、聖徳太子の発願による古い寺院。比叡山延暦寺に対して湖東の小叡山と称され、300余坊という壮大な寺院であった。織田信長の焼き討ちにより灰となる。この仁王門も再建。2.5M以上の草鞋がユニ-ク。仁王門に付きものの金剛力士像は向かい合っている。…』

 

かつての繁栄とは対照的な変わり様をひどく惜しんでいるかのようであり、帰って愛着が強くなっているようにも感じます。

 

 さて、この三山はどこも紅葉の名所で、盛りの時にはなんとも言えない風情を醸し出し観光客を楽しませてくれます。それだけにもうここは“かくれ里”ではなくなっており、湖東随一の観光スポットとして多くの観光客を集めています。しかし、観光人気に胡坐をかいていたら、人気に翳りが来ないとも限りませんし、有名観光地特有の慣れや惰性の兆しが全くなくも無いように感じました。これからも、地方の方の温かみが感じられるような接し方をして頂きたいと切に願っております。

④ 石走る(いわばしる)近江路


近江路の枕詞に、“石走る(いわばしる)”との表現があるようです。素材としての石がこれほど美しいものであると、近江を訪れた方は納得されるでしょう。石に関連した地名や名跡が兎に角多く残っています。
写真①石塔寺(いしどうじ)の石塔で、日本最古にして最大であり最も美しい形の石塔でしょう。寺の起源は謎ではっきりしていませんが、塔の形から、朝鮮半島の文化の名残りであるのは確かでしょう。その他に3万とも4万とも言われる石仏群がところ狭しと並ぶ様子は、何とも不思議な景色です。
写真②③日吉大社の、実に見事な石橋で、見飽きることはありません。間違いなく日本一の石橋でしょ。ここ近江坂本の日吉大社は、全国3800余の日吉・日枝・山王神社の総本宮で、紅葉の名所でもあります。


写真④⑤長安寺(関寺)の牛塔です。近江は、旧都(京都・奈良)に近く、落魄の貴人が身を寄せた地でもあり、ここを舞台とした謡曲も多く残されています。この牛塔も、小野小町と関わりのあるお話が伝わっています。
写真⑥百済寺庭園です。こんなに美しい形で、こんなに大きな石を一体どこから見つけて来たのか?庭園の植栽も素晴らしいし、池に錦鯉も素晴らしいのですが、この庭園の見どころは何と言っても石で、その見事さに思わず見とれてしまいます。
これ以外にも、石山寺、石道寺、石馬寺など、石に縁の深いお寺も多くあります。また、石垣作りで有名な穴太衆(あのうしゅう)も、この地域で出る石を利用した技術を全国に伝えています。

⑤菅浦湖岸集落と木地師街道


須賀神社と光徳寺ー菅浦湖岸集落と木地師街道                                           今回の旅行は、社寺としてはとてもマイナーですが、そのロケーションが憧れの地とでもいうべき集落にひっそりと佇む、そんな場所を訪ねてみました。                                                             菅浦(すがのうら)湖岸集落”、何と郷愁を誘う響きでしょうか!琵琶湖の最北端に位置する漁村で、平成26年10月6日、国の重要文化的景観に選定されたようです。そんな指定を受ける4~50年も前に、白洲正子の「隠れ里」で紹介されるなど、ごく一部の人には憧れの地として知られていました。東京からだと気軽に行ける場所ではなく、10以上前に一大決心で出かけたのですが、台風の後だったこともあり、村に通ずる唯一の道が通行止めになっていて、あとキロのところで引き返すことになってしまいました。今回は、何が何でも目的地まで辿り着くのだという気持ちで行き、それだけに辿り着いた時には感慨一入でした。菅浦地区の家々は新しくなっているところもありましたが、村内にはコンビニなどの現代文化を連想させるものが一切なく、もう何年も静かに漁撈を生業とした昔ながらの暮らしを続け、静かに時が過ぎて来たのだろうと連想させてくれる正に”隠れ里”でした。                                           集落の入口にある須賀神社は、天平宝字3年(764年)創始と伝わり、第47代淳仁天皇がこの地に隠棲したことからここに合祀されているようです。淳仁天皇と言えば、激しい権力争いに敗れた末に天皇位を廃され、”廃帝”と呼ばれてしまう憂き目に遭った天皇ですね。やはり、近江の古社寺には悲劇が必ずと言っていいほど付きまとい、その悲劇が何とも似つかわしい地でもあります本殿は高台にあり、入口の鳥居からは2~30分ほどかかりました本殿にお参りしてから入口の鳥居に戻るまで誰とも会うことはありませんでした。やはり、ここまでお参りに来る人は希なようです。本殿までの最後の階段には、「ここより土足を禁ずる」との注意書きがあり、私もそれにしたがい靴を脱いで上がりました。 


もう一つの目的地は、滋賀県が三重県桑名市と接する位置にある、”木地師街道(きじし街道)”と呼ばれる寒村です。源寺は滋賀県でも指折りの観光スポットですが、そこから目と鼻の先の木地師街道には足を運ぶ人は希なようで、他所からの訪問者どころか、住民にすら会うことはありませんでした。その真ん中あたりにある光徳寺は真言宗だということ以外の由緒らない寂びれたお寺ですが、そんな寺でしか醸し出すことができない独特の静謐さが漂っていました。行政上の地名は、滋賀県東近江市政所町です。”政所(まんどころ)”と言うくらいですから、行政の中心だったこともあったのだろう、などという想像を掻き立ててくれます。そして、この”隠れ里”にも、悲劇的伝説が伝わっています。                                                           文徳天皇(55代天皇、821~857)には第1皇子惟喬親王(これたかしんのう)がおり、天皇はもちろんこの皇子に譲位を考えていた。しかし第4皇子の惟仁(これひと)親王は、母が藤原氏の出であって、藤原氏は一門の者が皇位につくことを画策した。惟喬(これたか)親王派と惟仁(これひと)親王派激しい権力闘争の末に、敗れた惟喬(これた親王はこの地に逃れた、とのお決まりの皇位継承にからむ権力闘争です惟喬(これたか)親王はこの地に木材が豊富であることに着目し、轆轤(ろくろ)を発明したことから、お椀などの食器を生産する木地職が栄え、惟喬(これたか)親王は木地職の祖神と崇められるに至ったようです。                    ここ政所は、お茶の産地でもあるようで、戦国時代には石田三成が、お茶好きであった豊臣秀吉に茶を献上し大絶賛された三献茶の逸話も残っていますが、振舞ったお茶はここで採れた政所茶でした