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7「空海の風景」司馬遼太郎

司馬遼太郎氏の奥様の福田みどりさんによると、「空海の風景」は司馬氏が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際には必ずこの作品を用いたそうです。また、大阪の司馬遼太郎記念館に所蔵される6万冊の蔵書は、自著の本を除くと大半が宗教関連の本だと言われています。すると、司馬氏が最も興味を持った日本史上の人物は空海だったのかも知れないという仮説が成り立ちます。それほど、空海の生涯は不思議の連続だったと言っていいでしょう。                 空海に限らず、一宗派を興こした人物は魅力的ですし、その生涯は面白いエピソードに溢れています。法然・親鸞は、来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する念仏で、民衆の心を捕らえました。道元をはじめとする禅宗は、ストイックな中に潔く大胆な決断を迫られた鎌倉武士に受け入れられました。日蓮はそれまでの宗教も時の幕府もすべて否定し、何と辻説法という一人だけの街宣活動から一宗派を形成するという信じ難い過程を辿ります。近世でも山中みき・赤沢文治郎・黒住宗忠、なども面白いですし、出口なお・出口王仁三郎の大本教は、明治政府を本気で怒らせ、国が嘘の罪状を並べてでも撲滅しなくてはと躍起になるほど社会に深く浸透しました。しかし、空海は不思議のスケールが一段高いような気がします。                                      さて、宗教家が一宗派を成す過程では、時の権力から何らかの迫害があるのが常ですが、空海だけはそれがありません。迫害どころか、時の最高権力者である嵯峨天皇が空海の魅力に心酔し全面援助をしました。また、何百年にも渡り日本社会に君臨することになる藤原氏とも、何とも円満な関係を築きます。空海が権力に取り入ったということでは決してありません。現世の権力は、理屈や理性ではなく私欲で動きますから、放っておくと何をしでかすか分かったものではありません。そのことをよく理解していた空海は、「教王護国」「鎮護国家」などと説くことで権力側に恩を売り、書道を始めとした文化面で嵯峨天皇の心を鷲掴みにしました。また、空海より遥かに社会的地位の高い最澄さえ、宗教序列では下位においてしまいます。空海の行為は、密教世界の社会的な浸透という極めて学究的な目的であったために、後世の日本人から批判されることもありません。批判されるどころか、「空海が杖を突くとそこから清水や温泉が湧いて出た…」との伝承が日本全国遍く広がっています。それは“高野の聖”が全国を回って広めたのだという説明はつきますが、空海伝説になってしまうところが空海の魔力と言うべきでしょう。                                                       
 空海の不思議さを述べたら尽きませんが、密教最高位の地位を譲られる場面は圧巻です。805年、密教の中心地である長安・青龍寺に入ると直後に、密教第七祖・恵果(けいか)和尚より密教の奥義伝授を受けます。つまり、日本から来たばかりで初対面の青年に、恵果は「あなたが来るのをずっと待っていました…」と述べ、中国密教最高指導者の位を譲ってしまいます。伝授の儀式がすべて終わると直後に、自分の役割が終わったかの如く60歳で入寂します。また、空海には、20年間唐で勉強して来るようにとの命令が課されていましたが、入唐して2年で学ぶべきことをすべて学んでしまったため、国家の命令に背き帰国してしまいます。遣唐使船は、空海帰国後30年間中国から出ることはありませんでしたから、806年の遣唐使船がラストチャンスで、命に背き2年で帰国する決断をしなければ、空海は日本に戻ってくることができなかったことになります。また空海は、中国で栄えた密教の経典・法具・曼荼羅などすべてを日本に持って来てしまいますが、そんなことをして良いのだろうか、という疑問が沸きます。しかし、空海が密教のすべてを日本に持ち帰った40年後に中国では仏教弾圧が起こりますので、結果的には密教が今日まで受け継がれるためには絶対に必要な決断だったことになります。単なる偶然として片づけてしまうには余りにもタイミングが良く、恵果も空海も、まるで未来を予測できていたかの行動としか思えません。
 空海の本名は、佐伯マオです。マオというと、大地真央や浅田真央を思い浮かべるほどに、何とも現代的な響きですね。マオの字は真魚と書きますが、親の真意は不明です。書や語学の達人で文科系かと思いきや、その精力的な行動を見ると明らかに体育会系の体力です。空海が雨乞いをすると、不思議に雨が降り世間を驚かせたようですが、天文学の知識があり天気予測ができたので、雨が降りそうな時期を狙って雨乞いの儀式を行っただけです。すると、理科系の知識もあり、演出者でもあった訳です。身分の高い者しか高度な教育を受けることができなかった時代に、一般庶民でも志のある者なら誰でも学べる施設である綜芸種智院(現代の私立大学)を作りましたので、教育者でもあり社会運動家でもありました。それでいて、ビッグネームにありがちな、如何わしさのような影は微塵もありません。天皇や藤原氏を手玉に取り、後世の民衆の心までも捉えてしまう、正に万能の人ですね。