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11「昭和史」半藤一利

 2021年1月12日、半藤一利氏が永眠されました。同じ戦争体験者の司馬遼太郎氏が昭和を書かなかった(書けなかった)のに対し、半藤氏は昭和に拘った作家でした。司馬氏の場合、あの戦争の馬鹿馬鹿しさから、昭和を書こという気持ちが起きなかったと言っています。逆に、半藤氏は東京大空襲で生死の境を彷徨う実体験と、戦争体験者の聞き取り調査で、「戦争体験者は真実を語りたがらない…」という体験から、後世に実像を伝えなくてはならないという使命感を抱いたようです。司馬氏は従軍での内側からの戦争体験者であり、半藤氏は一般市民の被害者としての体験者という違いがあり、それが昭和を書く書かないの立場を違えたようです。
 半藤氏の言葉は、見たまま感じたままを率直に述べているように感じます。明仁上皇夫妻も、その点に惹かれ、度々歴史の話を半藤氏からお聞きになっていたようです。よく、第二次大戦は肥大化した軍部が勝手に起こした、そのような言われ方をする場合がありますが、「昭和史」にはそのように書かれていません。「軍部や時の内閣が率先し開戦を誘導できるものではない。マスコミが世論受けする勇ましい開戦論を煽り、マスコミから煽られた世論が軍部や内閣を動かした…」、というのが半藤氏の見方のようです。また、平成から令和の現在は終戦前夜の時期と大変に似た雰囲気であるとも感じていたようです。どのような点でそう感じていたかと言うと、「指導者が全体のプランや見通しを示さない」、「当局が真実を隠し、真実を求める動きや発言が封じられる…」、「誰も責任を取らない」、「省庁や部署の都合や利益が優先される」…と述べています。
 最高責任者の東条英機はどんな気分だったのかを伺うことができる出来事があります。一つは「竹槍事件」です。1944年(昭和19年)、2月23日付け、東京日日新聞の一面に、「竹槍では間に合わぬ…」との記事が掲載されました。これに激怒した東条は執筆者の新名丈夫(しんみょうたけお)を呼び出します。「…死地に送ってやる…」と、新名は直後に召集されることになります。これだけを見ても、軍がどんな気分で国民を招集し、戦地に送っていたかを伺うことができます。もう一つ、「東条自殺未遂事件」があります。1941年(昭和16年)1月8日、東条が示達した「…生きて虜囚の辱めを受けず…(捕虜になりそうな状況になれば自決せよ)」で有名な「戦陣訓」があります。この「戦陣訓」が多くの玉砕や自決の引き金になったと考えられています。終戦後、GHQに拘束された東条は、1945年(昭和20年)9月11日、拳銃自殺を図りましたが、見事に急所を外しすぐに介抱されました。自ら発した「戦陣訓」を自ら破ったことになります。指導者の気分はこんなものだったようです。
 また、半藤氏は面白いことを盛んに言っていました。「自分は右でも左でもない、ど真ん中の人間であると思っている。ところが、最近自分が左翼ではないかと言われることがあるのには驚く。ど真ん中の人間がまっとうなことを言うことが、左翼的に見える社会とはどんな社会であろうか…」。もっともっと色んなことを聞いておきたかった方でした。